女性が「性」の主体として生きること〜BLを通して〜

さて、ここまで私をBL評論にのめり込ませたものは一体なんだったのか、ということについて、エッセイを一通り書き終えた後で、私はもう一度つらつらと考えていた。

 一般的に、BLは女性に対する家父長制の抑圧と関連しているとされている。

それでは私の生まれ育った環境は、女性差別的な要素が強かったのだろうか?いや、どちらかと言えばむしろ両親は男女同権主義的な方である。

先日親と話していて、「ああ、こういうものと私は長年戦ってきたのだな」と腑に落ちる出来事があった。

親が、私のやや露出の多い服装について小言を言ったのだ。

「そのような格好をしていると中身のない人間と思われる」あるいは実際に私が「中身のない人間なのかもしれない」ということが親の主張の中心であった。しかし、露出の多い格好とは言っても、服から胸がはみ出していたわけでもなかったし、パンツが見えていたわけでもなかった。

私としても、親が言うように「性的な魅力や外見的な魅力のみに頼り、内面を磨こうとしない人間」になりたいとは思っていないし、性的な存在として、自分の意志に反してまで人に利用されたいと思っているわけではない。そのような心配なら理解できる。

しかし同時に私は、私が「中身のない人間」かどうかということについて多分他人よりもよく知っているし、私のことを「中身のない人間だと思う人がいるかもしれない」という唯それだけの理由で、自分の服装を規制したくはないと思った。なぜ、そいつらに自分を合わせる必要があるのか?

そのような規制は、「他者評価に依存したあり方」という点で、性的な魅力や外見的な魅力だけに頼ることと、驚くほど類似していないか?

思えば親は、私が子供の時分から早四十になろうという現在に至るまで、私がおしゃれを楽しもうとしたり、髪型を変えたり、恋人を作ったりするたびに、このようなメッセージを発してきたのだ。

小学校低学年の頃だったろうか。知り合いからお古としてもらった子供用のマーメイドラインのワンピースを、試しに私に着せてみて、親は言った。「ホステスみたい」と。その一言でそのワンピースは一度も着られずに捨てられる運命となった。

私は親の声色の中に、微妙な嫌悪感と軽蔑のニュアンスを感じとった。そして、それによって私の中の「娼婦である」ような部分が傷ついた(当時その言葉を知っていたかは別として)。

もちろん娼婦とホステスは同じではない。また、当時の私が現実に性的なサービスの対価としてお金をもらっていたということではない。ここで娼婦と言ったのは、「性的な魅力に物を言わせること」として考えていただきたい。そのように考えれば、ほとんどの女性またはある場合には男性も娼婦であることに間違いないのだが、この時私は自分のセクシュアリティが、「女性としての正しいセクシュアリティ」と「そうでないセクシュアリティ(ホステス)」とに分断されたように感じていた。「これはいいけど、あれはダメ」というふうに。

先日のやりとりで私はそのことを再認識されられた。私が大人になった今でも、親が私の中の「娼婦」性を嫌っているということを−−−。親にしてみれば、私が恋人を作ったり、おしゃれを楽しむことは、娼婦であることと同様に忌むべきことらしかった。彼らは多分を私を子供扱いしているのだ。そして彼らの理屈では、彼らが思う「正常」な判断を欠いた私の行動は私が子供である証拠以外の何物でもないのだろう。

しかし彼らがこのように考えるのは、彼らの頭の中に、「女性がおしゃれをする」=「性の客体として利用される」という固定化された図式しか存在しないからかもしれないと私は思った。

私はただ、自分が性的な存在であることも含めて自分を楽しみたいと思っているだけなのだ。

つまり、性の「主体」であろうとしているだけなのだ(私はここで、性的欲望の「客体」にされることに喜びを見出すマゾヒスティックな「主体」を否定しているわけではない。それはそれで良いと思う)。

そして、このような主体としての私の欲望を仮に抑圧した場合に損なわれる私のQOL (quality of life)について、親が保障することは不可能だし、第一彼らはそれを意に介さないだろう。

小学生のとき、クラスの数名の男子が、クラス全員の前で腰をくねらせるセクシーなダンスを披露した(これは恐らくマイケル・ジャクソンの影響ではなかったかと思う)。私はクラスメートらと共にそれを楽しんだが、同じことを自分がしたら怒られるのだろうか、と考えると複雑な気持ちだった。

なぜ男の子がすると笑って受け止められることも、女の子がすると眉を顰められるのだろうかと私は納得がいかなかった(もちろんその逆の反応になる振る舞いもあるとは思うが)。

こういったことの積み重ねにより−−−もし自分が男だったら−−−私は性的な存在としての自分や「女性であること」をもっと楽に自由に楽しめるんじゃないか(時には娼婦のような部分も含めて)?と感じたことが私をBLに向かわせたのだと思う。

余談だが、私がおしゃれすることを喜ぶ男性の中には、彼らにとっての「客体」としての私のみを見ている人と、主体としての私を応援してくれる人が両方いるのはもちろんのことである。

さらなる余談。

腐女子には「非モテ」を自認する人が多いとされるが、その心は「客体」としてのみモテるぐらいならモテなくてよい−−−とする不敵な笑いなのかもしれない、とこれを書きながら私は思った。「非モテ」は、「主体である」という選択をしたことの勲章なのだ。

そうは言っても、主体としてだろうが、客体としてだろうが、その両方でモテたいというという願望があることを私は否定しないが。そうすると、さしずめ「非モテ」はやせ我慢だろうか(笑)。

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著者インタビュー1 伝えたいことは?「黒子のバスケ」の逆とは?

 友人でカウンセラーのY.K.さん(女性)に、私がこのエッセイを書いた動機についてインタビューしてもらいました。

−−この作品で真名さんが狙ったのはどんなことですか?

……そうですね。一言でいえば、ボーイズ・ラブ(以下BLと略す)愛好家とそうでない人の架け橋になることでしょうか。

−−具体的にはどういうことですか?

BL愛好家がBLを愛する奥深い動機を、愛好家でない人にも分かりやすく、面白く伝えてみたいと思ったんですね。

−−それはかなりビックリですね(笑)。なぜ、それをやってみようと思ったんですか?

いつだったか、はっきり覚えてないんですが、「『黒子のバスケ』がどうして腐女子に人気があるのか」を考えてみたことがあったんです。
※『黒子のバスケ』は『週刊少年ジャンプ』(集英社)に連載された藤巻忠俊作のマンガです。
『黒子のバスケ』は大ヒットした少年マンガですから、もちろん色んな層に訴えかけるものがあったと 思うんですよ。「イケメンの登場人物が多いから」という説もありますが、私はもっと別の側面があると思っていて。

−−それはどんなことですか?

主人公の黒子が、体格的に劣っている部分とか、存在感のなさとか、非力さといった色んなハンデを背負いながら、それを逆手にとって、オンリーワンの存在として活躍するわけですよ。

−−それはそうですが、それと腐女子がどうつながるんですか?

これは、BL愛好家(腐女子)としての私の主観なんですが、黒子が大好きなバスケをやり続ける中で直 面する劣等感や屈辱や不安、それから、決して諦めず心に抱き続ける夢と野望、そして目標を達成した ときの喜び、そういったものが、女性が生きて行く上で感じる不安やその他の感情と通じるものがあっ たからだと思うんです。

もちろん女性であることについて特に違和感や不安をもたない女性もいるでしょう。しかしこの作品 は、女性だけでなく、色んな形のハンデを抱えた人の心に訴えたと思っています。

−−なるほど。

しかも、ハンデを乗り越えるために、自分の努力だけで何とかしようとするのではなく、パートナーと の深い信頼やチームワークで乗り越えていきますよね。そういった部分も女性の生き方と重なる部分が あるんじゃないかと感じています。
だから、この主人公は、私のような女性にとって、自分の不安や希望を重ね合わせることができる格好 のキャラクターだったんだと思うんです。しかもかわいいし(笑)。だから、女性にとって、「フィク ションの世界で黒子くんになってみたい」、「その世界で男性とセックスしてみたい」っていうのは、 ある意味自然なことだと思うんですよ。

−−大分わかってきました。

さらに言えば、思春期に、男性と性的な関係を持つということについて、不安や恐れを感じたことのあ る女性はたくさんいると思うんです。しかも多くの場合、それについての欲望や夢も女性は持ってい る。それは正に、バスケに対する黒子の立ち位置と同じです。そして、その不安を、ちょうど黒子がバ スケで成し遂げたようにして乗り越えていけたら−−、そういった願望があるんじゃないでしょうか。

−−ああ…なるほど−−。で?それが真名さんのエッセイとどう繋がるんでしょう?

私はこの逆がもしできたら、面白いんじゃないかと思ったんです。

−−「逆」というとどういうことですか?

えーとですね。誰もが合意できる現実のレベルでは、男性である「黒子くん」の悩みと今言ったような 女性の悩みとは、別物と言えます。しかし今説明したような共通点を感じとる人もいるわけです。彼女 たちは現実には自分が女性であると認識しているわけですが、一方では「自分は黒子である」という夢 を見ているのです。
※この説明にはアーノルド・ミンデルが提唱したプロセスワークの「現実の三つのレベル」の概念を使 用しています。
こんなふうに、人に夢を見させることができるのが、フィクションの力、芸術の力、という風にも言え ると思います。つまり、読者にとって現実的には自分と共通点がないようなキャラクターに感情移入さ せることができるわけです。そして、その体験を経た読者は、以前と違った目で現実を見るようになる かもしれない−−というオマケ付きで。
※BL愛好家の女性が黒子以外の男性キャラに感情移入する場合もあると思いますが、ここでは話を単純 化しています。
で、問題はこの「逆」です。 BL愛好家である私が、自分がBLを愛する理由を心の深層にまで降りて行って掴み取るとき、その本質は、BL愛好家でない女性や、男性にも通じるのではないか、ということです。 私はシンプルにその可能性を信じてみることにしました。

(つづく)

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( #黒子のバスケ #BL )

 

自分で自分のことを「性的なことで傷ついている」とは思っていないあなたに贈ります。

出版準備中のエッセイは、「BLが私の性的な事柄に関する自己愛の傷つきを癒してくれた」ということをメインテーマにしていますが、正直言って、私も最初は「自分が傷ついている」などとは少しも思っていなかったのです。

第一「自己愛が傷ついている」なんて考えてみるだけで、なんか傷つく感じがしませんか(笑)?

−−−まあ、そんな具合でした。

ではなぜ「傷ついている」と思うようになったかというと、BLを読んでいて、感動したり、癒されるポイントがあったときに、「どうして私はこのポイントで癒されるのだろうか?」という理由を突き詰めていって、その結論に行き着いたのです。

私の場合、自分でも普段はほとんど自覚していないようなセックスについての願望とか、性的なことに関して誰かに言いたかったこととか、とにかく何か自分自身で無意識に押さえ込んでいた感情や行動が、登場人物を通じて言葉にできたり体験できたときに−−−ああ、こんなにも心が動くものか−−−ということが多かったのです。

私も薄々自分が傷ついていることはどこかで感じていたような気もするのですが、そのことにはっきり気がついて言葉として認識したり、自分の願望を「意味がないこと」として「無かったこと」にするのではなく、現実の人間関係の中で実現可能かどうかはちょっと脇へ置いておいて、自分の願望を大切にする、その存在を認めるという気持になるだけで、ただBLを読んでいたときよりも根本的に癒される感じがしたのですね。

さらに、その傷つきについて言葉にしてシェアしてみたところ、BL愛好家でない多くの女性の友人からも、「同じ思いを抱えていた」という声をもらうことができ、お互いに癒される、という思いがけない嬉しい展開になりました。

ですから、BL愛好家の方もそうでない人も、私のエッセイを読んで癒されてくれたらとても嬉しいです。

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