本論考「女性による〜」はいかにして生まれたか

−−−−あれはもう今から3年も前のことになるだろうか。

もとより、心からBLを愛していたとは言え、私は当初BLを−−−−素晴らしくうまく−−−−「性欲を処理してくれるもの(肉体的かつ情緒的に)」、ぐらいにしか考えていなかった。

私は、その頃自分が教育分析を受けていた心理カウンセラーの、都会の真ん中にあるセラピー用のオフィスで、ぼそぼそした手触りの、柔らかすぎるくたびれた布張りのソファに、ほとんど埋もれるようにして座っていた。私が喉から絞り出すようにその言葉を発すると、セラピストは眉間にしわを寄せ、怪訝(けげん)そうに顔を上げた。

「もう少し、深く…その…探求してみたら?」

−−−−一体、何をこれ以上探求しろって言うんだ?

地球の裏側で発見された新種の昆虫でも見るようなおかしな顔を、私は多分このときしていたに違いない。

心理療法家たる者、アブノーマル(?)な趣味に歯止めをかけてくれるはずだ、という先入観をあっさり覆され、私は覚束ない足取りで彼のオフィスを後にした。

その後、毎度のごとく、同じソファの上でBLの感想を語ったり、感想を文章にしたものを持参して目を通してもらったりするようになったのだが、「ここでこんな話をするのは、無作法極まりないのではないか」と幾度となく思い、「今度こそ別のセラピストの所へ行くよう勧められるのではないか?」、「破門されるのではないか?」と気を揉んだ。しかしついにそういうことはなく、BLのどこがどう「素晴らしくうまい」のかについて、いつももっと詳しく探求してみるようにと温かく励まされるのだった。

この過程で私は、BL愛好家であることについての自分の罪悪感−−−−おそらくBLについての心理学的な「探究」などに着手せず、BLをただ単に「楽しいもの」」「心地よい」ものとしていたなら決して感じることはなかったであろう罪悪感−−−−「自分のBL愛好家としての心理をBL愛好家でない人にも分かるように伝えよう」などという大それたことを思ったばっかりに生じたと思われる「境界侵犯」の罪悪感−−−−に苛まれることとなった。

一度などは、自分がセラピストに対して悪いことをしているのではないかという罪悪感の発作に襲われて−−−−彼に対して不当に侵入しているように感じ−−−−数日間生きた心地がしなくなったが、ひとたびセラピストがセッションの時間外に私の要求のために使う時間についての料金の取り決めができると、この罪悪感はまるで嘘のように解消した。

またある時は、職場へと自家用車を走らせている最中に「だんだん淫(みだ)らになっていく私」という文字が目に飛び込んできて、自分のことを言い当てられているように感じ混乱した。落ち着いてよく見ると、その文字は目の前を走るトラックの車体後部に取り付けられた金属製プレートに書かれたものだと分かった。私は「ついに頭がおかしくなったのでは」「それ見たことか」と思い、自分の見ているものが幻覚である証拠を探そうと躍起になったが、とうとう見つけることはできなかった。

この出来事を彼にメールすると、この時はさすがに私の状態に危惧を覚えたのか、返信に「心の次元のこととして、取り組んでいきましょうね」と書いてあったので、私は思わず笑ってしまった。

この仕事に取り組むまで私は、フロイトが生きたヴィクトリア朝時代の人々に対し、性的に抑圧されていたという意味において「かわいそう」または−−−−今にして思えばだが−−−−滑稽にさえ思っていたかもしれないのだが、取り組みが進むにつれて、自分も彼らを笑えるほどの資格はないと思い知るようになった。

この時生じた罪悪感について私なりの見解を述べたい。誤解しないでほしいのだが、私は「BL愛好家は罪悪感をもつべき」などとは思っていない。

BLは「家父長制の抑圧から女性が逃避して性愛を楽しむためのツール」と言われている。あくまで「逃避」して楽しんでいる限りにおいて、それは全く罪のない遊びであると私は思っている。それだって、私という女性にとっては十分素晴らしい経験であった。しかし、私の中のある部分は、「それだけでは物足りない、逃避するのではなく、抑圧しているものと向き合いたい、対決したい」と思っていたようなのだ。このように、私の姿勢が逃避から対決へと転じる瞬間に、罪悪感は産声を上げるようなのである。

そういった訳で、私がこの論考を書き上げるには幾多の罪悪感を乗り越える必要があった。

これを書くことは、「BLに興味を持たない人を放っておいて、BL愛好家同士秘密の花園に遊ぶ」ことではなく、「自由に性愛を楽しむためにBLという手段を必要とする現実の女性が生きている社会」について考えたり、「私の生き方(あるいは現実の社会)がどのように変わればそのような手段がなくとももっと自由に性愛を楽しめるようになるのか」を問うことだった。

話を戻す。私はBLの素晴らしさについて、多くの友人達と意見を交換したが、そこには当初、様々なコミュニケーションのギャップがあった。

例えば、実際に性行為をするような間柄であっても、セックスに関して自分の感じていることを言葉にして伝えるには越えなければならない壁があった。そして友人達の多くもまた、セックスができる関係と、セックスについて話せる関係はまた別という考えを持っていた。さらに、性的な関係にない男性と性的なことについて意見交換することには、当然ながら壁があった。また、性被害のサバイバーである友人は−−−−当人が十分回復して健康になっているにも関わらず−−−−被害を受けていない人と性に関する話題をもつことに日頃から困難を感じていることが分かった。なぜなら、被害を受けていない女性は、被害をカミング・アウトされると、どう接していいかわからないということが、往々にしてあるからである。また、女性同士で性的な事柄を話題にする上で、BLを好きな人と、そうでない人の間にもやはり壁があった。BL愛好家の女性で、そうでない女性に対してBLの魅力をうまく伝えられた経験のある人は−−−−私を含め−−−−ほとんどいなかった。私に協力してくれた人たちの中で、ヘテロセクシャル(異性愛)の男性のBLに対する態度にはグラデーションがあり、BLを楽しむことができる人もいれば、それは無理だが私とBLについて話すことを楽しめる人など、様々な人がいた。

彼らとの対話の中で、繰り返し発せられた問いがあった。

「なぜBLなのか?」

−−−−時に冷たく、そして時に温かく−−−−その問いは発せられたが、要は「なぜ男同士でなければならないのか?」ということであった。

自分にとって感覚的に自明であることを、人に説明するのが、こんなにも難しいと感じたのは初めてかも知れない。

しかし私は確信していた。

たとえ言葉で説明できなくとも、すべての答えは既に私の中にあると−−−−。

私は自分がBLを嗜好(しこう)する無意識的な意味や動機を、そしてBL文化とメイン・ストリーム文化との位置関係を、自分自身の体験を通して「可視化」したいという野望を抱いた。

本書全体が、その試みの結果である。

エッセイの前半部分で私は、自分のBL趣味と関連していそうな個人的体験を挙げた。この体験をどのようにして選び出したのかについては後述する。

エッセイの後半部分では、私がBL作品で味わった感動の性質を、現実世界における女性のありようと結びつけて解釈することを試みた。

ぼんやりと潜在意識で感じていたことを明確な言葉として切り取る作業の過程で、まるで、新しい眼鏡をかけて世界を見るかのように、自分の過去や現実の社会がこれまでと全く違って見え始めるという現象に私は驚かされた

私は何か思いつくか、少し書き進めるごとに、友人達と内容をシェアし、ディスカッションを重ねた。

私たちはその都度少しずつ、お互いの間にあるコミュニケーションの溝を越えていった。

ある人は、私が「置き場のなかった感情の置き場をつくろうとしている」と言い、別の人は、私が「多くの女性の悩みを代弁している」、「言いたいことを言ってくれてスッキリした」と言ってくれた。

またある人は、この件について私と話をするのが、まるでレズビアンになったみたい、と言って笑い、別の人は、このエッセイを通じて、私の繊細さや知性や暴力性に触れるのが、まるで私とセックスしているみたいだ、と言った。

またある人は、「抑圧する側は、抑圧されてる人の気持ちがわからないから、絶対に書くべきだ」と言ってくれた。

ある人は、私の体験と性被害者の体験との関連性についてヒントを与えてくれた。

私と性被害のサバイバーの友人は、多分以前から直感的には知っていた、お互いの経験の違いを超えた共通性を確かめ合った。

ある人は、「これまで自分のSM性癖を後ろめたく感じてきたけど、市民権を得たようで嬉しい」と言ってくれた。

またある人は、このエッセイをきっかけとして、自分自身が性的な興奮とともに感じている様々な情緒について気づくことができたと言った。

女性のうち約2名は、中高生の頃、NHKのテレビシリーズ『アニメ三銃士』の二次創作同人誌(男になりすました女性であるところのアラミスと男性キャラクターとの性愛の物語)に熱狂した経験があった。また、私を含めた2名は、『天(そら)は赤い河のほとり』という、内面も外見も少年に似た少女が活躍する少女漫画のファンであった。こういった趣味は、BLに比べるとややメイン・ストリームに近く、BLの文化はメイン・ストリームからより偏奇していると私は考えた。そのうちの一人は、私が何か仮説を出すたびに「男同士である必然性が、きっともっとあるはず」と言い、何度も私に質問を投げかけ、さらに先へ進むよう私を励ましてくれた。私と彼女との微妙な違いが、私の軋みがちな思考力に油を注し、それまで気づきもしなかった点を気づかせてくれた。

私自身の変化としては、当初は自分の中のマゾヒスティックな面に市民権を与えるだけで四苦八苦していたのだが、「君臨せよ!(以下省略)」の項目を書き終わる頃には、自分の中のサディスティックな面についても平常心で受け入れることができるようになっていた。以前はSの面を人に指摘されると、まるで「切り裂きジャック」と言われたかのような極端な反応を示していたのだが−−−−。

私たちはこういったコミュニケーションを心から楽しんだ。

これは多分、私が「父なるもの」への罪悪感−−−−先ほどの罪悪感に名前を付けるとしたらそうなるのではないかと思うのだが−−−−をいくらか越えることができたからこそ、フィクションの中だけでなく、またBL愛好家同士の間だけでもなく、現実の中でお互いの違いを超えて築くことのできた関係性なのだと思っている。

本書はこうして生まれた。

痛い青春

「セックスがしたい。ただし挿入されるのでなければ」

というのがあの頃の私の正直な気持ちだった。

 

多分、私はとても怖がりなのだ。

 

そして、初めてのときはどんな相手がいいのか考えてみるに

童貞か少ししか経験のない男性?

−−−−いや、とんでもない!

処女とセックスした経験のない人?

−−−−いや、とんでもない!

……

てな具合。

 

いや、そもそもまず

「挿入されたことのない人に挿入される」ということ自体が

とても微妙なことだと私は思っていた。

 

いやいや、だって普通でしょ?

注射された経験のない医者に注射されたいと思わないでしょ?

真面目な話。

 

そんなわけで

どこか「両性具有的な匂いがする」と私が勝手に感じることのできる、

女性としての先輩でもあり、なおかつ異性愛の男性であるような男を私は求めていた。

 

お互い好きになれて、セックスをしたいと思える関係というのがまず大前提であり、その上にさらにこれだけの条件を付け加えたら、これらをすべての条件を満たす人物を、自分のお粗末なコミュニケーション能力の範囲内で見つけ出すのは至難であり、それを考えるにつけても「長くお付き合いができそうか」などという基準は、私の中ではるかに優先度の低い事項ということになるのだった。

 

昔祖父が、ちょくちょくお世話になっていた病院で、

注射をすると聞いて逃げ帰った話をしてくれたことを

私は思い出す。

なんでもそのお爺ちゃん先生は、注射がどうしようもなく下手ッピーだったらしい。

若い頃から下手だったのか、年をとって手元が狂うようになったのかは不明。

奥さんのナースは注射の手際が良かったらしいのだが、処置室に通された私の祖父は、お爺ちゃん先生の方が注射を担当するのだという気配を感ずるや否や、診療費だけをその場に残し病院を飛び出したというのだ。

 

−−−−いやぁ、おじいちゃん、私も同じ気持ちだったよ!

と私は心の中で叫ぶのだった。

読んでくださる方へ

女性による女性のための神話としてのボーイズ・ラブ

 −−−−私がボーイズ・ラブ作品を通じて

女性であることの誇りを取り戻せたことについて−−−−

私は基本的にこれを、

性に関する無意識的な傷つきをもった女性、

ボーイズ・ラブを愛する人、

巷に溢れる性に関するステレオタイプな言説に飽き飽きしている人、

自分の性的な体験について、情緒的に深めたいと思っている人、

性的なことに関連した情緒について、もっとオープンに、

そして繊細に語り合いたいと思っている人のために

書きました。

ようこそ 関係性の新たな地平へ。

そして、豊かな愛とエロスの世界へ。

寝室から職場まで

会社の中で本音を言えない日本のサラリーマンの生態について、ホリエモンと厚切りジェイソンが対談していた。(敬称略)

「Why? 本音を言えない日本人」最終回(NewsPicks イノベーターズ・トーク)URL: https://newspicks.com/news/1404255/body/?ref=search>

堀江:(略)日本人は「仲がいい相手とはすべての意見が一致しないといけない」と考えてしまう。

(中略)

堀江:俺はね、ハッキリ言うんですよ、偉い人に対しても。「いや、○○さん、それは違うと思いますよ。間違っています」と。するとシーンとなっちゃって、「それ言っちゃダメだよ」っていう雰囲気になるからね。

厚切り:いやいや、そう言うことによって相手の意見をきちんと説明する機会を与えることになるし、話し合えるでしょ。その結果、かえってお互いに理解が深まることになると思うんですけど。

堀江:それができるのは、日本ではごく一部の人だけ。意見の違いを理由に仕事を干されてしまう人、よくいるんですよ。本音を言い合うことに慣れていないんですよ、日本は。若い頃からディベートの訓練を受けていないという理由が大きいと思うんだけどね。

(中略)

厚切り:その教育がなされていないのはなぜ? 必要だと思われていないから?

堀江:意見の相違を尊重し合える教育が重要、と思っている人たちが少ないってことでしょう。特に意志決定するリーダーたちの理解が足りない。

この対談では主に、上司に不満を言えない部下のシチュエーションについて取り上げていた。

上の立場の人が自分と違う意見を尊重できないということは、違う意見を持つ部下の存在によって、自分が脅かされる感じがするからだと私は思う。そしてそんなふうに脅かされると感じるのは、その人自身、本当には自分自身を肯定できていないから。だから自分を肯定するのに自分が他人と同じであることを必要とする。

こういうナイーヴで繊細、傷つきやすい部分は日本人が他人への気遣いができる所以でもあるんだろうけど、要は、傷つきが簡単に許容範囲を越えちゃう人が多いということだろう。そして、一度許容範囲を超えちゃったら相手を嫌いになって簡単にコミュニケーションを閉ざしてしまう人が多いということだ。

これを図式化すると、「意見が違う」→「自分を否定されたと思って傷つき、この相手とは信頼関係が築けないと思う」→「話してもムダ」ということだ。だから、部下の立場では上司の許容範囲を慎重にうかがいながらコミュニケーションするというのが、一般的な日本人のあり方なのだろう。

意見の違いを超えて対話するには、「意見が同じ」ということに基づかない信頼関係が必要になる。双方に「意見の違う相手との対話には意味がある」という共通認識が必要なのだ。たとえその過程が双方の痛みをともなうとしても−−−−。

このパターンって何かにすごく似ているなーと思いながら、私はお二人の対談を聴いていた。職業柄、私は人の悩みを聴く機会が多い。それもどちらかというと女性の悩みを。女性たちが夫や恋人といったプライベートのパートナーとの関係で抱える悩み−−−−これがまあ、驚くほどこの対談で語られていることとそっくりなのだ。

「日本では、セックスについての意見や好みが違うパートナーとじっくり話し合い、互いの理解を深め合うということができるカップルはごく少数である。自分の好みや要望や不満を言うことで、相手に嫌われちゃうんじゃないかという心配から結局何も言わずに相手に合わせる人が多い。そうしているうちにセックスは、もはや楽しいものではなく苦痛に変わってしまう。そのためセックスレスになるカップルも多い。解決策としては性教育の中にセックスに関するコミュニケーションなどのテーマを設け、自分の要望の伝え方や相手への配慮の仕方についての訓練を積むことが必要。ところが意思決定するリーダーの間でこういったスキルが必要というコンセンサスがないため、なかなかそういう方向には行かない」

いやあ、びっくりしませんかこれ?

あなたは本音を言えない相手とセックスでしたいですか?

意思決定するリーダーが動くまで待てますか?

一つだけ言えることは、あなたの寝室でのコミュニケーションを変えることは、日本を変えることにもつながるってことですね。

涙は女の精子⁈

「そうか、涙は精子だ!」

と彼が言った。

私は意味が分からず頭が真っ白になった。

女性の涙を苦手とする男性は多いらしい。

恋人が「今度会う時泣かないでね」と言うので、「そんなの会ってみなくちゃわからないじゃない」と言ったら、「感情だからしょうがないってことだよね」と彼。彼の家族は、彼を含めてあまり泣くことがないらしく、私の涙に戸惑うらしい。

「いや、泣くのはいいことだよ。でも、なんで会っていきなり泣き出すのかがわからないんだ」

「普段我慢してるものが、安心できる人に会った途端溢れ出すことってあるでしょ?安心して感情を出せる人がそばにいなかったり、自分の中にそういうスペースがない時」

すると彼は得心したように、冒頭の名ゼリフを吐いたのだ。

落ち着いて考えてみるとどうやら、私にとっての涙が彼にとっての精子に似ているということが言いたかったらしい。

親密な関係の相手にしか出さない、という意味で。とんちんかんなことを言うと思ったが、私の言いたいことは伝わったようだ。

男性のみなさん、もし恋人があなたに涙を見せるとしたら、それはきっと彼女があなたを信頼しているから−−−−。

女性のみなさん、貴女がもし恋人に涙について問われたら、「涙は女の精子」と言ってみると、案外通じるかも。いや、保証はできませんが…。

訪問して下さった方へ

そろそろ投稿整理しないと分かりにくいですね(⌒-⌒; )

私はこちらのwebsiteでの発信を、今後二つのラインでやっていきたいと思っています。

一つは、女性にとってのBL存在意義を、歴史の中で、また女性の個人史の中で心理学的に分析し、仮説を構築するライン。

もう一つは、大人の女性として、「性」について分かりやすくポジティブに発言していくライン。

サイトの体裁を整えるのに少し時間がかかると思いますが、貴方のお好きな方を読んでくださると嬉しいです。

エピソード1

それは私がまだ10歳になる以前のことではなかったかと思う。

『〇曜ミステリー』というような、ミステリー系のテレビドラマを家で見ていたときにそれは起こった。

それはセックスの場面でさえなかった。もっとも、その頃の私は、セックスが何かということについて、厳密には知っていなかったが。それは殺人の場面だった。当時はよく分からなかったのだが、今にして思うとそれは、それまで親密な関係にあった男女間の殺人で、全裸の女性が男性に殴り殺されるというシーンだった(より正確に言うと、演出によって、殴り殺しているように視聴者に見せかけるため、平手で叩いていた)。ドラマ全体の筋書きについてはほとんど覚えていない。そのシーンだけが妙に鮮明に脳裏に焼き付いている。

とにかくそれを見た私は、瞬間的に、殺される恐怖と、性的な興奮に同時に襲われ、自分で自分をどうしたらいいのか全く分からなくなってしまった。(性的な興奮をそれと判別するぐらいの認識力は、当時持ち合わせていた。)踏み込んではいけない深淵を覗いてしまったという後悔にとらわれたが、私には、自分がそこから引き返す能力を欠いているのがわかった。性欲と恐怖の両方に首根っこをつかまれているような状態で、精神的な意味で身動きがとれないのだ。その片方だけでも当時の私の心臓を鷲掴みにするぐらいの力があっただろうに。

まるで、自分のものではないかのような、おかしな具合に感じられる身体と、頭にこびりついて離れない忌まわしい映像に長時間悩まされた挙句、今度は、こういう自分はどこか異常なのではないか、という新たな悩みがそこに加わった。なぜなら、今自分が陥っている体験について、本で読んだり、人から聞いたりしたことがなかったからだ。しかも、それが異常であろうがなかろうが、このような矛盾を内包した存在として、自分は生きていくよりほかないのだという絶望的な悟りのようなものが私の中に生じ、そこから、そのような自分が歩むに違いない未来を想像してみたときに、私は、暗澹たる気持ちになった。

もしもこの女性が素手で殺されたのではなく、銃やナイフなどの武器で殺されたのだとしたら、おそらく私はここまで衝撃を受けることはなかっただろう。なぜなら、素手で殺されるということは、自分が男性と二人きりになればいつでも殺される可能性があるということを意味するように私には思えたからだ。そんな吹けば飛ぶような命を今自分が生きている、しかもそれは自分が女であるからかもしれないと思うと、私はそのことを呪いたくなった。

さらに、この犯人の男は、何度も肌を重ねたこの女性に対して、せめて苦痛を与えずに殺すとか、快楽のうちに死なすといった優しささえ持ち合わせていないのはなぜなのか?

そして、尊厳を傷つけられたと言っていいほどの嫌な気分にもかかわらず、同時に性的に興奮もしている自分?これは一体何なのか−−−−?

はっきり言って自分自身にとってさえ意味不明なのである。私を興奮させたトリガーは、女性が裸であったことと、「殺される!」と感じたことであった。この性的な興奮と私の自己保存の本能とは明らかに真逆の方向を向いているではないか。つまり、この性欲というやつは、私の一部であるにも関わらず、私の「生きたい」という最低限の望みにさえ反逆する場合があるということなのだ。そんな性衝動の存在を私は許すことができるのか?

イギリスの諺で「好奇心は猫を殺す」と言うけれど、この性欲はいつか私自身を殺すのではないかという予感に私は慄然とした。

−−−−もしそうでも、私はそいつ(性欲)を手放せない、手離さない。それは人間として間違っていることなのだろうか?

百歩譲ってこの性的な興奮が、死の恐怖をはるかに凌駕するほどの快楽を私にもたらしてくれたのだとしたら、私はまだ自分を許す気になれただろう。そうすれば話はまた違ったと思うのだが、「虫ケラのように扱われいる」不愉快さが邪魔をして自慰をする気にもなれなかった私には、何のカタルシスも与えられないのだった。

さらに、一つの刺激によって死の恐怖と、性的な興奮が同時に生じたために、両者が必ずセットになっているものと、私は誤解したのかもしれない(ジョルジュ・バタイユがその著書『エロティシズム』で述べたように、「死」の概念を「象徴的な死」即ち個体の境界の消滅ということにまで拡大すれば、これは全く誤解ではなく正しい理解ということになるのだが)。

後に私がこの体験をセラピストに語ったとき、彼は、私が当時不思議な仕方で投げ込まれたこの葛藤状況の苦しさに理解を示し、こう言った。「そうした場合、今のあなたには少なくとも三つの選択肢がある。一つは『性的な興奮に集中する』こと、二つ目は『死の恐怖に集中する』こと、そして三つ目が『性的な興奮と死の恐怖を同時に感じる』ことだ。少なくとも今はもう君には選択する自由と力がある」

 

腐女子は自らの女性器をどう捉えているのか?〜「やおい穴」をめぐる議論に思う〜

BLでは「受け」の男性の体のある部分、つまり「攻め」の男性の男性器を受け入れる部分が、まるで女性器のように機能しているように描かれているのが、現実にそぐわずおかしいのではないか、という議論がある。

これについては、BL愛好家の間でも実に様々な意見があるらしい。

私がその議論を見ていてちょっと「不思議だな」と思うのは、BL愛好家の女性が、自分の女性器についてどう思っているのか、という視点がすっぽり抜け落ちているところ−−−−。

みんな、女性器は男性器を受け入れることについて、いつでも問題なくスムーズに機能するものだと、根拠もなく勝手に思ってるみたいなんです。

だけど、そもそもまだ一度もセックスをしたことがない若いBL愛好家も大勢いると思うのですが、彼女たちは「自分の女性器はスムーズに男性器を受け入れられる」なんてホントに思ってるのかしら?

自分はそういう年齢のときにはとてもそんなふうに楽観的にはなれなかった。そしてセックスへの欲求と同時に不安や恐れが一杯あるからこそ、自分はBLを求めたと思っているので、そういう状態のときに「男性の肛門・直腸を女性器と同じように描くのはおかしいのでは?」などという批判に曝されなければならないとしたらそれは結構酷なことだと思う。

学校の性教育でも初めてのセックスに伴う痛みについてはあまり教えていないようだし、自分の女性器がどう機能するのかさえ実地には知らない女性にそれを突きつけるのってどうなのよ?そのときに、みんなが女性器はスムーズに機能するという前提を暗黙のうちに持ってるらしいのも、ものすご〜く変に思える。でも私もそんなふうに話を振られたら、その前提に乗っかって話しちゃうかもしれないと思わせられるのが、この話の怖いところ。だって「変な女」と思われたくないから(悪)

私の初体験のときはと言えば、「飛び上がるほど痛い」というのが比喩だったらまだいいのだが、私の場合実際に飛び跳ねてしまうので、屈強な肉体を持った当時の私のセックス・パートナーも私を捕まえていることができず、お互いがセックスしようと望んでトライを始めてから三日目まで全く挿入には至らなかった。三日目になったところで、私たちはようやく彼の体重の全てを私の両太腿に乗せることで何とか挿入できそうということを発見し、やっとこさでほんの少し挿入できたという具合だった。

信じられないかもしれないが、そのとき私はとても幸せだった。私はあの日の二人を戦友として讃えたい。

もちろんスムーズにいくならそれはそれで良いことと思うけど、私はいろんな人に訊いてみたい。「あなたはどうだったの?」「簡単でしたか?」と。

それから「やおい穴」について議論している人には、ぜひ一度CockyBoysを見ることをオススメしたい。CockyBoysはニューヨークを拠点とするインターネット視聴に特化したゲイ・ポルノ・メーカーで良質な作品を量産している。見るにあたっては、日本での視聴は映像が修正されていないため違法となる可能性が有るので、自己責任で見る場所や視聴の方法を判断してほしい。それを見れば、彼らのセックスが男女のそれと比べてスムーズでないなどとは少しも思えないし、挿入する方の男性が愛情をこめて自分の唾液で相手の開口部を濡らしているので、濡れないからセックスが困難などとは全く見受けられない。さらに、ごく自然に挿入する人とされる人が入れ替わってセックスする様子も新鮮でハッとさせられる。

私が言いたいのは「みんながこうだ」ということではなく、物事は一概には言えないということである。

女性の場合も前立腺はないけれど、肛門の入り口は普通に気持ちがいいと思うんですが、あなたはいかが?

 

思春期の君へ、あの頃の私へ

若い頃はどうしてあんなに性に関する話をすることのハードルが高かったのだろう?

この年になってみると、それについて話したところで失うものなんか何もないように思えるのに。

まず子供の頃はそれについて話す言葉を持たなかった。

さらに、それに対する大人の反応はどこかぎこちなく、急に腹が痛くなったか大事な用事を思い出したか、訃報に接した人のように不自然で、大の大人をそんな風にうろたえさせるということはどこか恐ろしく、こちらまで居心地悪くなるのだった。

それでも子供の特権でわざとどぎついことを言ってみたりするのだったが、自分が物を知らないということを見透かされてるようで恥ずかしくなった。

思春期になると、しばらくの間は同年代で性に関する話題に花を咲かせたものだが、そのうちに−−−−今になってみるとバカバカしいほどちっぽけなプライドのために−−−−経験がないということが急に恥ずかしくなり、話をする機会もめっきり減ってしまったのだった。

藤本由香里が「女性は視覚では欲情しない」というような文章を若い頃読んだばっかりに、自分は男ではないのか、と真剣に悩んだという経験を書いていた(『快楽電流〜女の、欲望の、かたち〜』より)。私も随分この手の「女性は〜しない」というような言説に右往左往させられて悩んだ覚えがある。

なぜだか知らないが性に関する体験は、自分と一般とを引き比べて「自分はどこかおかしいのではないか?」と人を悩ませるケースが多いような気がする。−−−−特に若い時分には。

こういうこと一つとっても、もう少しオープンに性について話題にできたり、性に関する個々人の多様性を自然に認め合うような文化・風土があれば、それほど悩まなくて済むようなことばかりではないだろうか?

思春期の頃の私は、大人の女性たちが性についての一般的な知識などではなく、「私」を主語にして性に関する自分の生き方、自分独自の考え方などをオープンに語ってくれないことに対して、かなり不信感をもっていた。女性が性について話すことへの抑圧がある社会というのは、思春期の自分にとって全くフレンドリーではなかった。

さて、大人になった私はある日はたと気づいたのだ。自分が個人的に性やセックスについて困ることがなくなったからと言って、それについて押し黙っていたら、私の行動もまた、思春期の頃の自分が嫌っていた大人の女性たちと何ら変わりがないという事実に−−−−。

こんなことでは世代を重ねてもちっとも人類は進歩しない。100年後の少女は私と同じ問題で悩むのだろうか?もちろん現代にしたって昔に比べれば少しずつ状況は改善されているとは思うが。

そういうわけで、思春期の自分に恥じない生き方をしたいという、それ以上でもそれ以下でもないのですが、「私」を主語に性に関する発信をしていきたいのです。