フェミニストはマゾヒズムがお嫌い?

微風が仄かな花の香を運んでくる春の夕べ−−−−。

あなたは親しい友人らと共にディナーのテーブルにつき、今まさに好物の料理を口に運ぼうとしている…。するとそこへ突如一陣の風と共に覆面の人物が現れ、あなたの耳元で次のように囁く。

「あなたは覚えていないかもしれませんがあなたがその食べ物を好んでいるのは、幼少期のトラウマの影響です」

「それを食べ続けていては幸せになれません」

「あなたはその趣味を捨て去るべきです」

言い終わるが早いかその人物は訪れた時と同じようにあっという間に視界から消えてしまった。

友人たちが何事もなかったかのように食事を続ける中で、あなたは考え込んでしまう。

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思春期以降、女性の性的なマゾヒズムに対するフェミニズムの見解に接したときに私が感じた困惑は、ちょうど上記のようなものだったと言ったら、少しは当時の私の心境を分かってもらえるだろうか?

私は、小さい子供の時分から性的なマゾヒズムを持っていた−−−−と自分では思っている。具体的には、縛られたり、自由を奪われたりすることを想像しては性的に興奮する傾向があった。

しかるにフェミニズムは、女性のこのような欲望−−−−特に男性の欲望の対象となることに興奮するような性質の欲望−−−−またはそうでなくとも女性の性にまつわる欲望全般をどうやら「男社会から押し付けられたもの」と見なしているようだ、と私は折に触れて感じるようになった。少なくとも、フェミニズムが私の性欲を応援してくれているように感じたことは、その当時皆無であった。

フェミニズムは、男性の女性に対する暴力を糾弾するとともに−−−−私としてもそれ自体に全く異論はないのだが、というか性別がどうあれ暴力には反対だが−−−−私のようなタイプの欲望の持ち主についても「男社会」に迎合するものとして糾弾しているように私には感じられた。

それにしても、自分の欲望を「男社会に押し付けられたもの」と見なす、などという考えは、私にとって不名誉極まりないことだった。

もし私の性欲が自然的なものではなく、人工的に「他者から押し付けられたもの」だとしたならば、私が自分自身の性欲を大事にすることは、私がどんどん他人の言いなりになって主体性をなくし、不幸になることにつながるのではないだろうか?そして私の性欲は恥ずかしい異常なものであり、治療しなければならないものということになりはしないか?もしフェミニストの言うことが本当なら、私は自分と性欲の形がぴったり合うパートナーを見つけることは一生無理なのではないか、なぜなら、そいつらは全員犯罪者に違いないだろうから、とさえ私は考えた。

今では笑って、なおかつ自信をもって「そんなバカなことはない」と言い切ることができるのだが、当時の私にとってこれは全く笑えない冗談だった。

私はフェミニズムが歴史上果たしてきた役割、今も果たしつつある役割を評価しているつもりだ。しかし当時の私は、それによってなおさら深刻な倫理的ジレンマに陥ったのだった。

しかも、フェミニストが言うように、ためしに自分の性欲を「押し付けられたもの」と見なしてみたところで、私自身はちっとも気分がよくならないし、欲求不満に陥るだけでなく、マゾヒスティックな欲望を自分が捨て去ることは不可能だということを痛感する結果になる、という有様だった。

私は、「暴力に反対である」という私の立場と、自分のマゾヒスティックな性的ファンタジーの両方を説明することのできる、より高次の理論で武装することなしには、もはや安心して1秒も生きていくことができないという結論に達した。

私はこういった疑問に取り憑かれて過ごした時間を無駄だったとは考えていない。なぜならこれを考え抜いたことによって私は−−−−政治家がSMについて「穢らわしい」と発言しようとも−−−−もし自分にぴったりのパートナーが見つからなくとも−−−−大手を振って通りを歩くことのできる心境になれたし、積極的に自分に合うパートナーを見つけようという気持ちになることができたからだ。

そしてBLは、このような悩みに関しても、私と同じような形の欲望を持っている女性は、決して世界に自分一人ではないし、そのような欲望を持つことと、現実の暴力に反対することとは問題なく両立しうるということを確信させてくれたのだった。

ごく最近になって私は、自分と同世代のアメリカのフェミニストが、旧い世代のフェミニズムを「女性が自らのセクシュアリティを楽しむことに罪悪感を抱かせた」として非難したということを知った。

この問題に関する現在の私の見解はこうである。もしある人が、自分の性欲の形を「押し付けられたもの」であると感じ、それを拒否したり排除することでより幸せになれるのだったら、排除することはその人にとって正しいことなのだ。しかし、それと全く同様に、ある人が自分の性欲の形に満足していて、そのことで自分も他人も不幸にすることがないのだったら、それは決して非難されるべきではない。その人にとっては、その欲望の形を大事にすることが正しいことなのだ。

ああ−−−−これで私はやっと安心して食事をとることができる。

男性のホモフォビアと腐女子〜フィクション中の女性は「既に女であることを受け入れた女」?〜

男性の友人の幾人かに、彼らの中にあるホモフォビアとは具体的にはどんなものかを訊いてみたことがある。それらを総合すると−−−−幾分私自身が個人的に受け取った印象も入り込んでいると思うが−−−−「もし自分が、男性に挿入されて気持ち良く感じてしまったら、人間として(あるいは男として)終わってしまうのではないか」というような感覚であると言う。

私は女性であるが、思春期にこれと本当によく似た感覚をもっていた。そして、その「人間として終わってしまう」という恐怖を乗り越えなければ男性と交わることができない自分と比べ、その恐怖を乗り越えなくても女性と交わることのできる男性の立場をとても羨ましく感じていた。

さらに、「挿入される」という受け身の立場について、その逆の能動的な立場よりも「劣っている」という感覚が私の中にあり、自分が挿入する立場の男性ではなく、挿入するかされるかを選ぶことのできるゲイの男性でもなく、性器の交わりのことに限って言えば−−−−男性と交わる場合には−−−−挿入されるしか選びようがない女性であるということが、なかなか受け入れられなかった。

そして、その立場を受け入れるということは、どこか自分の自尊心、競争心、より優れたもの、より良きものでありたいと願う人間としての当然の生き方を放棄・否定することのように思われ、それを放棄した自分がその後も果たして人間として生きていけるのかどうか、不安で仕方がなかった。

これに関して、私は周囲の大人たちに次のようなことを尋ねてみたかったのだと思う。

−−−−挿入されることは、実際に受け身な感じがするものなのか?

−−−−挿入されることについて「劣っている」と感じたことがあるかどうか?

−−−−もしそうだとしたら、それはセックスを経験することで変わったのかどうか?

−−−−もし、自由にどちらか選べるとしたら挿入される方を選ぶかどうか?

などなど…。

そして、このような「挿入されることに抵抗を持つ自分」こそが「真の自分」なのだという意識がどこかにあり、それが男性とのセックスといった外力によって−−−−体だけでなく−−−−心まで作りかえられてしまうかもしれないと思うことは、確固としたアイデンティティなんかとてもじゃないが持っていなかった当時の自分にとってかなり恐ろしいことだった。

当時の私から見て、こういった疑問をもっていないように見える大人の女性は、「話が通じない」または「人間ではない自分とは異質な生き物」であるように感じられたし、小説や漫画などの男女の恋愛やセックスの描写に登場する女性ときたら−−−−まったくもう−−−−どいつもこいつも「既に女であることを受け入れている女」にしか見えず、女であることを受け入れていない今の自分を重ね、感情移入することができる人物がそこにはいないのだった。すると必然的に、まだ完全には大人になりきれていない同年代の若い男性が、もっとも自然に自分を重ね感情移入することができる対象となるのだった。

これはまさにBLの主人公そのものではないか。

BLは、こういうメンタリティーのまま何の抵抗もなくスッと入っていくことができて、出てくるときには、絶対に越えられないと思っていた一線を仮想現実の中であっさりと−−−−しかも気持ち良く−−−−越えさせてくれるツールなのだ。

BLの主人公は、少なくとも私が思っている「女」のようには、挿入されることをすんなりと受け入れたりはしない。そういう状況になると、「女」であれば絶対にしないような抵抗を示したり、「女」であれば絶対に言わないようなことを言ってくれる。そこがドンピシャに感情移入できるポイントなのだ。そして不思議なことに、挿入されることへの抵抗感を、主人公に感情移入して充分に表現した後では、当初の抵抗感は軽減しているものである。

その後は、作品によってかなり異なると思うのだが「受け身も案外いいものだな」とか「実際自分はこの方が好きだ」と思うかもしれないし、受け身ではない形での挿入される体験が得られる場合もあるだろう。それから受け身の中には「甘えられる体験」といったものもあるということに気がつくかもしれない。そして、「挿入されることは受け身なのか?」という当初の疑問については、「YesでありNo」そしてそれは「悪くないもの」であり、ときには「物凄く良いもの」と感じるようになるのだ。

タブーを見直す

性に関するコミュニケーションには様々なタブーがあるけれど、それは私たちを守ってくれているものでもある。

もちろん人を傷つけないための繊細さや思いやりは大切。

だけど中には「ただ何となくそういう習慣になっているから」というだけの決まりごとや、「思い込み」みたいなものもあるように思う。

社会の中のそういう目に見えない枠組み?みたいなものに揺さぶりをかけることができたら、私は幸せ。

揺さぶりをかけられたそれは、やがて色んな人の力が加わって、みんなが居心地の良い方向に組み換わっていくのではないかな、と私はかなり楽観的に思っているのです。

体に合わなくなった服を取り替えるように、蝶が蛹を脱ぎ捨てるように、私たちは変わっていくことができるのではないかな。

まえがき3 本書を書くために用いた方法論について〜BL依存症につける薬〜

何を隠そうこの私は「BL依存症だった」と思っている。

BLを読むこと自体は私にとって喜びであり楽しみであったので、そのことで困っているという意識はほとんどなかった。ただ、その趣味をよく思わない人が世の中にいることや、趣味を同じくしていない人に私の趣味を説明してもあまりよくわかってもらえないということでは多少困っていたかもしれない。

さらに、私には次のような「末期的」な症状も見受けられた。即ち、ヒマさえあればBLのことを四六時中考えてしまうとか、ふと気づくとBL作品中のセリフを口ずさんでいるとか、一人になったら間髪を入れずに作品を鑑賞しないと気が済まない−−−−などのことである。

話は変わるが、私はカウンセリングや心理療法など対人援助の目的と、自分自身の心の健康のために、プロセスワークという心理療法を学んできた。その手法は、身体症状や夢といった現象の背景にある、本人がまだはっきりとは自覚していないプロセスへの自覚を深め、それを自我に統合するための手法だった。しかしなぜか数年前まで、その手法を自分に起きている「BL好き」という現象に応用してみようと思うことはなかった。

最初のきっかけが何だったかはともかく、とにかくあるとき私は自分の「BL好き」に対して、プロセスワークでアプローチしてみようと思ったのだ。BLは私にとって、「言葉ではうまく説明できないけれども」、「なぜだか理屈で分からないにも関わらず」、「自然に」惹きつけられてしまう何かだった。まずここから次のようなことが分かる。私のBL好きには「通常の意識とは異なる意識状態」が関与しているということである。「通常の意識とは異なる意識」のことを「変性意識」という。つまり、私がBLに惹かれるのは「変性意識状態」の仕業というわけだ。「自分がBLに惹かれる理由」について、もし私の意識が完全に把握できているならば、私は自分の「BL好き」についてこんな風には感じないはずなのである。即ち「私は○○という理由でBLを愛好している」ということが単純明快に言えるはずなのだ。そして、もし私が自分の「BL好き」について完全に把握できているならば、その理由は、相手がBL愛好家でなくとも、理屈として了解可能なものになるはずである。BL愛好家でない人が私の言うことを理解できないならば、私はまだ自分のことを十分に把握できていないのだ。

というわけで、私の「BL好き」の謎を解明するためには、通常の意識とは異なる意識状態「変性意識状態」を扱うことに長けたプロセスワークが役に立つかもしれない、という可能性を私は感じたのだ。

さて、私がプロセスワークのどういう方法論を用いて自分の「BL好き」を解明したのかを書く前に、私の場合、それを解明することによって、どういうメリットとデメリットがあったかをお伝えしたいと思う。

メリットの1番は、自分自身についてよく知ることができたということに尽きる。「自分をよく知っている」と感じられることは、人に自信を与えるものである。このため以前よりも自分に自信がもてるようになった。また、「BL愛好家でよかった」と心から思えたということもある。それはBLが私をいかに支え癒してきたのかを詳細に知ることができたからである。そして、自分自身について深く知ったことから、BL愛好家でない人とも分かり合える度合いが深まった。

これ以降のメリットは、メリットの1番から自然に派生したことである。

メリットの2番は、私のBL趣味や性的な嗜好を理解してくれたり、共に楽しむことができるパートナーを見つけようという希望をもつことができ、実際に見つけることができたことである。

メリットの3番は、性的なことに関して自分の感じていることを表現する自由度が格段に広がったことである。

メリットの4番としては、以前よりBLに「依存している」という感じがしなくなったこと。だからといって、BLを好きでなくなったりすることはない。

最後になったが、この解明の過程には次のようなデメリットがあったことを付け加えておきたい。デメリットとは、解明の過程には痛みが伴うことである。BLをただ楽しく消費していた時の私は、自分の性的なことに関連した痛みや傷つきにほとんど気づかず、あるいは意識の片隅では痛みがあることを知っていたとしても、敢えてそれを感じないようにして、痛みを帳消しにしてくれる「心地よい刺激」、「快楽」だけを求めていた。しかし、少し立ち止まって考えてみればすぐに分かることだが、どこかに「不快」があるからこそ「快」を求め続ける必要があるのであり、「不快」を元から絶たない限りBLを消費し続けなければならないという問題点があったのだ。

さて、長らくお待たせしたが、私が自分の「BL好き」を解明するために用いた方法論をここで整理しておく。

①まず、自分が好きな作品の中で、特に「好きだ」と感じられる箇所に着目する。このときできれば、「好きだ」と感じられる箇所の中で、「BL特有の表現」と思うものを選ぶ。

②その箇所を「好きだ」と私が感じるのは、その箇所を読むことで私が心地よい変性意識状態に入ることができるから、と考える。そして、その心地よい変性意識状態に留まり、それを十分に味わうようにする。その心地良さがどういう心地良さなのか調べ、それを言葉にする。

③次に、その「普段と異なる変性意識状態」から、普段の自分、これまでの自分の意識状態を振り返ってみる。するとどうだろう。−−−−あら不思議、自分でも「私ってそんなこと思っていたのかしら?」と驚くような隠された傷つきや願望が出てくるはずなのだ。

この①〜③の手順を具体例を挙げて説明してみる。

例えば私がBL漫画で「受け」が「攻め」に対して「オレを侮るな」と主張するシーンを「好きだ」と感じたとする。補足すると、こういったセリフは大抵、受けが攻めに「女扱い」されたと感じるときに出てくるものだと思う。

次にこのシーンで私が感じた心地良さをよく味わってみると、私は「オレを侮るな」という自己主張をする受けに感情移入して、自己主張することの心地良さを感じているということが分かる。

次に、この心地よい状態から普段の自分の意識状態を振り返ってみる。そこから分かることは、「自分を侮るな」というような自己主張を私は人に対して、特に男性に対してしたい気持ちがあるのだろう、しかし、同時にそのような自己主張を行うことに私は困難を感じているのだろう、ということである。さらに、「攻め」ではなく、「受け」が「侮るな」と主張するところに私の快楽があるのだとすると、「女扱い」されること、または「挿入されるポジションにある」ということに対して、自分はどこか劣等感を持っているのかもしれない、といったことも考えることができる。

また別の例を挙げる。あなたが、「攻め」が「受け」に対して優しく接するシーンがとても「好きだ」と感じていたとする。そのシーンで味わう心地よさをあなたがよく味わってみると、それが「優しくされる心地よさ」であることがわかる。その心地よい意識状態のところから普段のあなたの意識状態を振り返ってみて分かることは、普段のあなたが、パートナーの男性が自分に対して、または世の中の男性が女性に対して十分に優しくない、と感じていること、またはあなたが「もっと優しくしてほしい」と男性に伝えることに何らかの困難を抱えているのだろう、ということである。

基本的にこの①〜③の手順の繰り返しにより、私は「どうして自分がBLを好きなのか」、「BLで癒されるのか」についての理解を深め、この本にまとめたのだ。

さて、「なぜBLが好きなのか」を解明するという目的からは多少逸脱するように思われるかもしれないが、この後に手順④として、③で得た気づきを元に、自分の隠された願望の方向性に沿って、または自分の傷つきを癒していけそうな方向性に沿って、実生活、特に人間関係のあり方を改革することができれば、より充実した幸せな生活が送れるようになることは間違いない。手順③で、自分の願望や傷つきを自覚するだけでも、BLに依存している感じが減少することがあると思うが、手順④まで進み、現実の人間関係を通して満たされる度合いが増えることでさらに減少する。こうして③で得た気づきには確かに意味があったということが、実生活における幸せを通じて証明されることになるのだ。

なお、ここまで見てくると、BL愛好家はそうでない人に比べて、性に関するコミュニケーションに困難を抱えている人という印象を与えるかもしれないが、私はそうは思っていない。なぜなら、私の書いたものや私とのコミュニケーションを通じて、BL愛好家ではない私の女友達の多くが、性に関する自身の感情を自覚し、それについて話せるようになり癒されるという体験をしたからだ。つまり、私がBLを通じて気がつくことができた感情の多くは−−−−もちろん個人差があるが−−−−多くの女性にとって意味のあることだったのだ。

座談会レポート

昨年12月、私のエッセイを読み興味をもってくれている女性の友人たちを集め、座談会を行った。会のサブタイトルは〜ボーイズ・ラブを通して語る「自由とは?」〜

ちなみに、私のエッセイや座談会に興味を持ってくれる女性の方の、約半分ぐらいは、人生で一度もBL愛好家だったことはなく、今後もそうなることはないだろうという人たちである。残りの半分は思春期から青年期にかけて、通過儀礼のようにBLないし「やおい」のお世話になったという方。そして私のエッセイがきっかけで大人になってからBLに目覚めた人も。

いずれにしても、エッセイをきっかけとして、自分の中で自覚することにさえストップをかけていた様々な感情に気づき、それを、場合によっては「生まれて初めて」人と分かち合うということに、ワクワク感をもっている人−−−−。自分も含めそういう人が一番多かったかもしれない。

というわけで、私たちを結びつけているのは必ずしもBLではなく、一番は「性に関することを楽しく安心して話せる場があったらいい」というニーズなのだ。そもそもBLは、女性が持っているこうした潜在的なニーズに対する一つの「解決」として生み出されたという側面があると私は思っているのだが、この会ではそのニーズをもっと直接的に−−−−つまりは必ずしもBLを媒介とせずに−−−−満たしてみよう!ということを企てたのだ。

12月の座談会では、それぞれの参加者が「BLの、エッセイの、または座談会の何に惹かれて、あるいは何が気になって座談会に参加したのか」について、二人一組でよく話し合って明確にしてもらった。次に、「その人が惹かれている/気になっている何かは、普段その人が無意識に抑圧していたり、表現することを躊躇ったりあきらめたりしていた感情や欲求を解放し、自由にしてくれる糸口ではないか」と私は考えているので、「自分が惹きつけられている/気になっている方向性に沿って、普段の自分がもっている抑圧や抵抗、あきらめから100%自由な存在」についてイメージを膨らませてもらった。

以下は座談会に参加してくれたカウンセラーのTakoさんが、ワークについてシェアしてくれた内容である。

結局わたしが気になっていたのは、

セックスも含むコミュニケーションのことだと思う。

Takoさんはエクササイズの時、かつてのパートナーと、セックスについて言葉を通してのコミュニケーションができなかったことが頭に浮かんでいたと言う。さらに彼女は、かつて女性同士でも「セックスについてのコミュニケーション」を持つことができずにいたとのこと。最近になって、私や、私の友人たちとそのことについてコミュニケーションができるようになり、そこで味わった楽しさや解放感が忘れられず、座談会に参加することになったのだという。

そのことについてワークして、わたしが求めるものを体現する自由な存在を思い浮かべた時に出てきたものは、

裸で、でん!と立つ女性だった。

で、その女性の性器のあたりに、黒々とした闇のような穴が存在していた。

それは黒い深遠のようで何も見えない未知の世界だった。

それは何かを引きずりこむ黒い穴でもあり、

何かを生み出す大いなる黒い穴でもあるようだった。

しかしそれは黒々と何も見えず、

そこに何があるか、人々も、それを持っている女性自身にも未知のものだった。

その未知のものを、自分自身でさえ恥ずかしく思ってしまうというのがこれまでのわたしに起こっていたこと。

しかしその女性は堂々と立ち、その深遠の闇である穴をさらしていた。

この日、私を含め他の参加者がワークして辿り着いた人物像も、どこかしらこれと似たものが多かったように思う。

この穴・闇は、女性器そのものかもしれないし−−−−実際その中を見ることはできないからね−−−−「女性性」みたいなものかもしれないし、女性が「男性には関係ないことだから言ってもしょうがない」と思って言葉にすることを怠ってきた色んな経験のことかもしれない。

自分のもつ闇、未知の部分を恥じ、隠すのではなく、そこに「それ」があることを認め、むしろ「これって不思議だね」と愛で慈しみ、堂々と自分にも他人にもその存在を誇示し、それと共にあること−−−−。

ああ、そのようなもので私はありたい!

というわけで、私も含め主催者側も参加者の熱に大いに触発される会となった。

これを敢えてBL風に言うなら「胸張ってこうぜ!バディ」ってとこか?