まえがき3 本書を書くために用いた方法論について〜BL依存症につける薬〜

何を隠そうこの私は「BL依存症だった」と思っている。

BLを読むこと自体は私にとって喜びであり楽しみであったので、そのことで困っているという意識はほとんどなかった。ただ、その趣味をよく思わない人が世の中にいることや、趣味を同じくしていない人に私の趣味を説明してもあまりよくわかってもらえないということでは多少困っていたかもしれない。

さらに、私には次のような「末期的」な症状も見受けられた。即ち、ヒマさえあればBLのことを四六時中考えてしまうとか、ふと気づくとBL作品中のセリフを口ずさんでいるとか、一人になったら間髪を入れずに作品を鑑賞しないと気が済まない−−−−などのことである。

話は変わるが、私はカウンセリングや心理療法など対人援助の目的と、自分自身の心の健康のために、プロセスワークという心理療法を学んできた。その手法は、身体症状や夢といった現象の背景にある、本人がまだはっきりとは自覚していないプロセスへの自覚を深め、それを自我に統合するための手法だった。しかしなぜか数年前まで、その手法を自分に起きている「BL好き」という現象に応用してみようと思うことはなかった。

最初のきっかけが何だったかはともかく、とにかくあるとき私は自分の「BL好き」に対して、プロセスワークでアプローチしてみようと思ったのだ。BLは私にとって、「言葉ではうまく説明できないけれども」、「なぜだか理屈で分からないにも関わらず」、「自然に」惹きつけられてしまう何かだった。まずここから次のようなことが分かる。私のBL好きには「通常の意識とは異なる意識状態」が関与しているということである。「通常の意識とは異なる意識」のことを「変性意識」という。つまり、私がBLに惹かれるのは「変性意識状態」の仕業というわけだ。「自分がBLに惹かれる理由」について、もし私の意識が完全に把握できているならば、私は自分の「BL好き」についてこんな風には感じないはずなのである。即ち「私は○○という理由でBLを愛好している」ということが単純明快に言えるはずなのだ。そして、もし私が自分の「BL好き」について完全に把握できているならば、その理由は、相手がBL愛好家でなくとも、理屈として了解可能なものになるはずである。BL愛好家でない人が私の言うことを理解できないならば、私はまだ自分のことを十分に把握できていないのだ。

というわけで、私の「BL好き」の謎を解明するためには、通常の意識とは異なる意識状態「変性意識状態」を扱うことに長けたプロセスワークが役に立つかもしれない、という可能性を私は感じたのだ。

さて、私がプロセスワークのどういう方法論を用いて自分の「BL好き」を解明したのかを書く前に、私の場合、それを解明することによって、どういうメリットとデメリットがあったかをお伝えしたいと思う。

メリットの1番は、自分自身についてよく知ることができたということに尽きる。「自分をよく知っている」と感じられることは、人に自信を与えるものである。このため以前よりも自分に自信がもてるようになった。また、「BL愛好家でよかった」と心から思えたということもある。それはBLが私をいかに支え癒してきたのかを詳細に知ることができたからである。そして、自分自身について深く知ったことから、BL愛好家でない人とも分かり合える度合いが深まった。

これ以降のメリットは、メリットの1番から自然に派生したことである。

メリットの2番は、私のBL趣味や性的な嗜好を理解してくれたり、共に楽しむことができるパートナーを見つけようという希望をもつことができ、実際に見つけることができたことである。

メリットの3番は、性的なことに関して自分の感じていることを表現する自由度が格段に広がったことである。

メリットの4番としては、以前よりBLに「依存している」という感じがしなくなったこと。だからといって、BLを好きでなくなったりすることはない。

最後になったが、この解明の過程には次のようなデメリットがあったことを付け加えておきたい。デメリットとは、解明の過程には痛みが伴うことである。BLをただ楽しく消費していた時の私は、自分の性的なことに関連した痛みや傷つきにほとんど気づかず、あるいは意識の片隅では痛みがあることを知っていたとしても、敢えてそれを感じないようにして、痛みを帳消しにしてくれる「心地よい刺激」、「快楽」だけを求めていた。しかし、少し立ち止まって考えてみればすぐに分かることだが、どこかに「不快」があるからこそ「快」を求め続ける必要があるのであり、「不快」を元から絶たない限りBLを消費し続けなければならないという問題点があったのだ。

さて、長らくお待たせしたが、私が自分の「BL好き」を解明するために用いた方法論をここで整理しておく。

①まず、自分が好きな作品の中で、特に「好きだ」と感じられる箇所に着目する。このときできれば、「好きだ」と感じられる箇所の中で、「BL特有の表現」と思うものを選ぶ。

②その箇所を「好きだ」と私が感じるのは、その箇所を読むことで私が心地よい変性意識状態に入ることができるから、と考える。そして、その心地よい変性意識状態に留まり、それを十分に味わうようにする。その心地良さがどういう心地良さなのか調べ、それを言葉にする。

③次に、その「普段と異なる変性意識状態」から、普段の自分、これまでの自分の意識状態を振り返ってみる。するとどうだろう。−−−−あら不思議、自分でも「私ってそんなこと思っていたのかしら?」と驚くような隠された傷つきや願望が出てくるはずなのだ。

この①〜③の手順を具体例を挙げて説明してみる。

例えば私がBL漫画で「受け」が「攻め」に対して「オレを侮るな」と主張するシーンを「好きだ」と感じたとする。補足すると、こういったセリフは大抵、受けが攻めに「女扱い」されたと感じるときに出てくるものだと思う。

次にこのシーンで私が感じた心地良さをよく味わってみると、私は「オレを侮るな」という自己主張をする受けに感情移入して、自己主張することの心地良さを感じているということが分かる。

次に、この心地よい状態から普段の自分の意識状態を振り返ってみる。そこから分かることは、「自分を侮るな」というような自己主張を私は人に対して、特に男性に対してしたい気持ちがあるのだろう、しかし、同時にそのような自己主張を行うことに私は困難を感じているのだろう、ということである。さらに、「攻め」ではなく、「受け」が「侮るな」と主張するところに私の快楽があるのだとすると、「女扱い」されること、または「挿入されるポジションにある」ということに対して、自分はどこか劣等感を持っているのかもしれない、といったことも考えることができる。

また別の例を挙げる。あなたが、「攻め」が「受け」に対して優しく接するシーンがとても「好きだ」と感じていたとする。そのシーンで味わう心地よさをあなたがよく味わってみると、それが「優しくされる心地よさ」であることがわかる。その心地よい意識状態のところから普段のあなたの意識状態を振り返ってみて分かることは、普段のあなたが、パートナーの男性が自分に対して、または世の中の男性が女性に対して十分に優しくない、と感じていること、またはあなたが「もっと優しくしてほしい」と男性に伝えることに何らかの困難を抱えているのだろう、ということである。

基本的にこの①〜③の手順の繰り返しにより、私は「どうして自分がBLを好きなのか」、「BLで癒されるのか」についての理解を深め、この本にまとめたのだ。

さて、「なぜBLが好きなのか」を解明するという目的からは多少逸脱するように思われるかもしれないが、この後に手順④として、③で得た気づきを元に、自分の隠された願望の方向性に沿って、または自分の傷つきを癒していけそうな方向性に沿って、実生活、特に人間関係のあり方を改革することができれば、より充実した幸せな生活が送れるようになることは間違いない。手順③で、自分の願望や傷つきを自覚するだけでも、BLに依存している感じが減少することがあると思うが、手順④まで進み、現実の人間関係を通して満たされる度合いが増えることでさらに減少する。こうして③で得た気づきには確かに意味があったということが、実生活における幸せを通じて証明されることになるのだ。

なお、ここまで見てくると、BL愛好家はそうでない人に比べて、性に関するコミュニケーションに困難を抱えている人という印象を与えるかもしれないが、私はそうは思っていない。なぜなら、私の書いたものや私とのコミュニケーションを通じて、BL愛好家ではない私の女友達の多くが、性に関する自身の感情を自覚し、それについて話せるようになり癒されるという体験をしたからだ。つまり、私がBLを通じて気がつくことができた感情の多くは−−−−もちろん個人差があるが−−−−多くの女性にとって意味のあることだったのだ。

本論考「女性による〜」はいかにして生まれたか

−−−−あれはもう今から3年も前のことになるだろうか。

もとより、心からBLを愛していたとは言え、私は当初BLを−−−−素晴らしくうまく−−−−「性欲を処理してくれるもの(肉体的かつ情緒的に)」、ぐらいにしか考えていなかった。

私は、その頃自分が教育分析を受けていた心理カウンセラーの、都会の真ん中にあるセラピー用のオフィスで、ぼそぼそした手触りの、柔らかすぎるくたびれた布張りのソファに、ほとんど埋もれるようにして座っていた。私が喉から絞り出すようにその言葉を発すると、セラピストは眉間にしわを寄せ、怪訝(けげん)そうに顔を上げた。

「もう少し、深く…その…探求してみたら?」

−−−−一体、何をこれ以上探求しろって言うんだ?

地球の裏側で発見された新種の昆虫でも見るようなおかしな顔を、私は多分このときしていたに違いない。

心理療法家たる者、アブノーマル(?)な趣味に歯止めをかけてくれるはずだ、という先入観をあっさり覆され、私は覚束ない足取りで彼のオフィスを後にした。

その後、毎度のごとく、同じソファの上でBLの感想を語ったり、感想を文章にしたものを持参して目を通してもらったりするようになったのだが、「ここでこんな話をするのは、無作法極まりないのではないか」と幾度となく思い、「今度こそ別のセラピストの所へ行くよう勧められるのではないか?」、「破門されるのではないか?」と気を揉んだ。しかしついにそういうことはなく、BLのどこがどう「素晴らしくうまい」のかについて、いつももっと詳しく探求してみるようにと温かく励まされるのだった。

この過程で私は、BL愛好家であることについての自分の罪悪感−−−−おそらくBLについての心理学的な「探究」などに着手せず、BLをただ単に「楽しいもの」」「心地よい」ものとしていたなら決して感じることはなかったであろう罪悪感−−−−「自分のBL愛好家としての心理をBL愛好家でない人にも分かるように伝えよう」などという大それたことを思ったばっかりに生じたと思われる「境界侵犯」の罪悪感−−−−に苛まれることとなった。

一度などは、自分がセラピストに対して悪いことをしているのではないかという罪悪感の発作に襲われて−−−−彼に対して不当に侵入しているように感じ−−−−数日間生きた心地がしなくなったが、ひとたびセラピストがセッションの時間外に私の要求のために使う時間についての料金の取り決めができると、この罪悪感はまるで嘘のように解消した。

またある時は、職場へと自家用車を走らせている最中に「だんだん淫(みだ)らになっていく私」という文字が目に飛び込んできて、自分のことを言い当てられているように感じ混乱した。落ち着いてよく見ると、その文字は目の前を走るトラックの車体後部に取り付けられた金属製プレートに書かれたものだと分かった。私は「ついに頭がおかしくなったのでは」「それ見たことか」と思い、自分の見ているものが幻覚である証拠を探そうと躍起になったが、とうとう見つけることはできなかった。

この出来事を彼にメールすると、この時はさすがに私の状態に危惧を覚えたのか、返信に「心の次元のこととして、取り組んでいきましょうね」と書いてあったので、私は思わず笑ってしまった。

この仕事に取り組むまで私は、フロイトが生きたヴィクトリア朝時代の人々に対し、性的に抑圧されていたという意味において「かわいそう」または−−−−今にして思えばだが−−−−滑稽にさえ思っていたかもしれないのだが、取り組みが進むにつれて、自分も彼らを笑えるほどの資格はないと思い知るようになった。

この時生じた罪悪感について私なりの見解を述べたい。誤解しないでほしいのだが、私は「BL愛好家は罪悪感をもつべき」などとは思っていない。

BLは「家父長制の抑圧から女性が逃避して性愛を楽しむためのツール」と言われている。あくまで「逃避」して楽しんでいる限りにおいて、それは全く罪のない遊びであると私は思っている。それだって、私という女性にとっては十分素晴らしい経験であった。しかし、私の中のある部分は、「それだけでは物足りない、逃避するのではなく、抑圧しているものと向き合いたい、対決したい」と思っていたようなのだ。このように、私の姿勢が逃避から対決へと転じる瞬間に、罪悪感は産声を上げるようなのである。

そういった訳で、私がこの論考を書き上げるには幾多の罪悪感を乗り越える必要があった。

これを書くことは、「BLに興味を持たない人を放っておいて、BL愛好家同士秘密の花園に遊ぶ」ことではなく、「自由に性愛を楽しむためにBLという手段を必要とする現実の女性が生きている社会」について考えたり、「私の生き方(あるいは現実の社会)がどのように変わればそのような手段がなくとももっと自由に性愛を楽しめるようになるのか」を問うことだった。

話を戻す。私はBLの素晴らしさについて、多くの友人達と意見を交換したが、そこには当初、様々なコミュニケーションのギャップがあった。

例えば、実際に性行為をするような間柄であっても、セックスに関して自分の感じていることを言葉にして伝えるには越えなければならない壁があった。そして友人達の多くもまた、セックスができる関係と、セックスについて話せる関係はまた別という考えを持っていた。さらに、性的な関係にない男性と性的なことについて意見交換することには、当然ながら壁があった。また、性被害のサバイバーである友人は−−−−当人が十分回復して健康になっているにも関わらず−−−−被害を受けていない人と性に関する話題をもつことに日頃から困難を感じていることが分かった。なぜなら、被害を受けていない女性は、被害をカミング・アウトされると、どう接していいかわからないということが、往々にしてあるからである。また、女性同士で性的な事柄を話題にする上で、BLを好きな人と、そうでない人の間にもやはり壁があった。BL愛好家の女性で、そうでない女性に対してBLの魅力をうまく伝えられた経験のある人は−−−−私を含め−−−−ほとんどいなかった。私に協力してくれた人たちの中で、ヘテロセクシャル(異性愛)の男性のBLに対する態度にはグラデーションがあり、BLを楽しむことができる人もいれば、それは無理だが私とBLについて話すことを楽しめる人など、様々な人がいた。

彼らとの対話の中で、繰り返し発せられた問いがあった。

「なぜBLなのか?」

−−−−時に冷たく、そして時に温かく−−−−その問いは発せられたが、要は「なぜ男同士でなければならないのか?」ということであった。

自分にとって感覚的に自明であることを、人に説明するのが、こんなにも難しいと感じたのは初めてかも知れない。

しかし私は確信していた。

たとえ言葉で説明できなくとも、すべての答えは既に私の中にあると−−−−。

私は自分がBLを嗜好(しこう)する無意識的な意味や動機を、そしてBL文化とメイン・ストリーム文化との位置関係を、自分自身の体験を通して「可視化」したいという野望を抱いた。

本書全体が、その試みの結果である。

エッセイの前半部分で私は、自分のBL趣味と関連していそうな個人的体験を挙げた。この体験をどのようにして選び出したのかについては後述する。

エッセイの後半部分では、私がBL作品で味わった感動の性質を、現実世界における女性のありようと結びつけて解釈することを試みた。

ぼんやりと潜在意識で感じていたことを明確な言葉として切り取る作業の過程で、まるで、新しい眼鏡をかけて世界を見るかのように、自分の過去や現実の社会がこれまでと全く違って見え始めるという現象に私は驚かされた

私は何か思いつくか、少し書き進めるごとに、友人達と内容をシェアし、ディスカッションを重ねた。

私たちはその都度少しずつ、お互いの間にあるコミュニケーションの溝を越えていった。

ある人は、私が「置き場のなかった感情の置き場をつくろうとしている」と言い、別の人は、私が「多くの女性の悩みを代弁している」、「言いたいことを言ってくれてスッキリした」と言ってくれた。

またある人は、この件について私と話をするのが、まるでレズビアンになったみたい、と言って笑い、別の人は、このエッセイを通じて、私の繊細さや知性や暴力性に触れるのが、まるで私とセックスしているみたいだ、と言った。

またある人は、「抑圧する側は、抑圧されてる人の気持ちがわからないから、絶対に書くべきだ」と言ってくれた。

ある人は、私の体験と性被害者の体験との関連性についてヒントを与えてくれた。

私と性被害のサバイバーの友人は、多分以前から直感的には知っていた、お互いの経験の違いを超えた共通性を確かめ合った。

ある人は、「これまで自分のSM性癖を後ろめたく感じてきたけど、市民権を得たようで嬉しい」と言ってくれた。

またある人は、このエッセイをきっかけとして、自分自身が性的な興奮とともに感じている様々な情緒について気づくことができたと言った。

女性のうち約2名は、中高生の頃、NHKのテレビシリーズ『アニメ三銃士』の二次創作同人誌(男になりすました女性であるところのアラミスと男性キャラクターとの性愛の物語)に熱狂した経験があった。また、私を含めた2名は、『天(そら)は赤い河のほとり』という、内面も外見も少年に似た少女が活躍する少女漫画のファンであった。こういった趣味は、BLに比べるとややメイン・ストリームに近く、BLの文化はメイン・ストリームからより偏奇していると私は考えた。そのうちの一人は、私が何か仮説を出すたびに「男同士である必然性が、きっともっとあるはず」と言い、何度も私に質問を投げかけ、さらに先へ進むよう私を励ましてくれた。私と彼女との微妙な違いが、私の軋みがちな思考力に油を注し、それまで気づきもしなかった点を気づかせてくれた。

私自身の変化としては、当初は自分の中のマゾヒスティックな面に市民権を与えるだけで四苦八苦していたのだが、「君臨せよ!(以下省略)」の項目を書き終わる頃には、自分の中のサディスティックな面についても平常心で受け入れることができるようになっていた。以前はSの面を人に指摘されると、まるで「切り裂きジャック」と言われたかのような極端な反応を示していたのだが−−−−。

私たちはこういったコミュニケーションを心から楽しんだ。

これは多分、私が「父なるもの」への罪悪感−−−−先ほどの罪悪感に名前を付けるとしたらそうなるのではないかと思うのだが−−−−をいくらか越えることができたからこそ、フィクションの中だけでなく、またBL愛好家同士の間だけでもなく、現実の中でお互いの違いを超えて築くことのできた関係性なのだと思っている。

本書はこうして生まれた。

読んでくださる方へ

女性による女性のための神話としてのボーイズ・ラブ

 −−−−私がボーイズ・ラブ作品を通じて

女性であることの誇りを取り戻せたことについて−−−−

私は基本的にこれを、

性に関する無意識的な傷つきをもった女性、

ボーイズ・ラブを愛する人、

巷に溢れる性に関するステレオタイプな言説に飽き飽きしている人、

自分の性的な体験について、情緒的に深めたいと思っている人、

性的なことに関連した情緒について、もっとオープンに、

そして繊細に語り合いたいと思っている人のために

書きました。

ようこそ 関係性の新たな地平へ。

そして、豊かな愛とエロスの世界へ。

エピソード1

それは私がまだ10歳になる以前のことではなかったかと思う。

『〇曜ミステリー』というような、ミステリー系のテレビドラマを家で見ていたときにそれは起こった。

それはセックスの場面でさえなかった。もっとも、その頃の私は、セックスが何かということについて、厳密には知っていなかったが。それは殺人の場面だった。当時はよく分からなかったのだが、今にして思うとそれは、それまで親密な関係にあった男女間の殺人で、全裸の女性が男性に殴り殺されるというシーンだった(より正確に言うと、演出によって、殴り殺しているように視聴者に見せかけるため、平手で叩いていた)。ドラマ全体の筋書きについてはほとんど覚えていない。そのシーンだけが妙に鮮明に脳裏に焼き付いている。

とにかくそれを見た私は、瞬間的に、殺される恐怖と、性的な興奮に同時に襲われ、自分で自分をどうしたらいいのか全く分からなくなってしまった。(性的な興奮をそれと判別するぐらいの認識力は、当時持ち合わせていた。)踏み込んではいけない深淵を覗いてしまったという後悔にとらわれたが、私には、自分がそこから引き返す能力を欠いているのがわかった。性欲と恐怖の両方に首根っこをつかまれているような状態で、精神的な意味で身動きがとれないのだ。その片方だけでも当時の私の心臓を鷲掴みにするぐらいの力があっただろうに。

まるで、自分のものではないかのような、おかしな具合に感じられる身体と、頭にこびりついて離れない忌まわしい映像に長時間悩まされた挙句、今度は、こういう自分はどこか異常なのではないか、という新たな悩みがそこに加わった。なぜなら、今自分が陥っている体験について、本で読んだり、人から聞いたりしたことがなかったからだ。しかも、それが異常であろうがなかろうが、このような矛盾を内包した存在として、自分は生きていくよりほかないのだという絶望的な悟りのようなものが私の中に生じ、そこから、そのような自分が歩むに違いない未来を想像してみたときに、私は、暗澹たる気持ちになった。

もしもこの女性が素手で殺されたのではなく、銃やナイフなどの武器で殺されたのだとしたら、おそらく私はここまで衝撃を受けることはなかっただろう。なぜなら、素手で殺されるということは、自分が男性と二人きりになればいつでも殺される可能性があるということを意味するように私には思えたからだ。そんな吹けば飛ぶような命を今自分が生きている、しかもそれは自分が女であるからかもしれないと思うと、私はそのことを呪いたくなった。

さらに、この犯人の男は、何度も肌を重ねたこの女性に対して、せめて苦痛を与えずに殺すとか、快楽のうちに死なすといった優しささえ持ち合わせていないのはなぜなのか?

そして、尊厳を傷つけられたと言っていいほどの嫌な気分にもかかわらず、同時に性的に興奮もしている自分?これは一体何なのか−−−−?

はっきり言って自分自身にとってさえ意味不明なのである。私を興奮させたトリガーは、女性が裸であったことと、「殺される!」と感じたことであった。この性的な興奮と私の自己保存の本能とは明らかに真逆の方向を向いているではないか。つまり、この性欲というやつは、私の一部であるにも関わらず、私の「生きたい」という最低限の望みにさえ反逆する場合があるということなのだ。そんな性衝動の存在を私は許すことができるのか?

イギリスの諺で「好奇心は猫を殺す」と言うけれど、この性欲はいつか私自身を殺すのではないかという予感に私は慄然とした。

−−−−もしそうでも、私はそいつ(性欲)を手放せない、手離さない。それは人間として間違っていることなのだろうか?

百歩譲ってこの性的な興奮が、死の恐怖をはるかに凌駕するほどの快楽を私にもたらしてくれたのだとしたら、私はまだ自分を許す気になれただろう。そうすれば話はまた違ったと思うのだが、「虫ケラのように扱われいる」不愉快さが邪魔をして自慰をする気にもなれなかった私には、何のカタルシスも与えられないのだった。

さらに、一つの刺激によって死の恐怖と、性的な興奮が同時に生じたために、両者が必ずセットになっているものと、私は誤解したのかもしれない(ジョルジュ・バタイユがその著書『エロティシズム』で述べたように、「死」の概念を「象徴的な死」即ち個体の境界の消滅ということにまで拡大すれば、これは全く誤解ではなく正しい理解ということになるのだが)。

後に私がこの体験をセラピストに語ったとき、彼は、私が当時不思議な仕方で投げ込まれたこの葛藤状況の苦しさに理解を示し、こう言った。「そうした場合、今のあなたには少なくとも三つの選択肢がある。一つは『性的な興奮に集中する』こと、二つ目は『死の恐怖に集中する』こと、そして三つ目が『性的な興奮と死の恐怖を同時に感じる』ことだ。少なくとも今はもう君には選択する自由と力がある」

 

女性が「性」の主体として生きること〜BLを通して〜

さて、ここまで私をBL評論にのめり込ませたものは一体なんだったのか、ということについて、エッセイを一通り書き終えた後で、私はもう一度つらつらと考えていた。

 一般的に、BLは女性に対する家父長制の抑圧と関連しているとされている。

それでは私の生まれ育った環境は、女性差別的な要素が強かったのだろうか?いや、どちらかと言えばむしろ両親は男女同権主義的な方である。

先日親と話していて、「ああ、こういうものと私は長年戦ってきたのだな」と腑に落ちる出来事があった。

親が、私のやや露出の多い服装について小言を言ったのだ。

「そのような格好をしていると中身のない人間と思われる」あるいは実際に私が「中身のない人間なのかもしれない」ということが親の主張の中心であった。しかし、露出の多い格好とは言っても、服から胸がはみ出していたわけでもなかったし、パンツが見えていたわけでもなかった。

私としても、親が言うように「性的な魅力や外見的な魅力のみに頼り、内面を磨こうとしない人間」になりたいとは思っていないし、性的な存在として、自分の意志に反してまで人に利用されたいと思っているわけではない。そのような心配なら理解できる。

しかし同時に私は、私が「中身のない人間」かどうかということについて多分他人よりもよく知っているし、私のことを「中身のない人間だと思う人がいるかもしれない」という唯それだけの理由で、自分の服装を規制したくはないと思った。なぜ、そいつらに自分を合わせる必要があるのか?

そのような規制は、「他者評価に依存したあり方」という点で、性的な魅力や外見的な魅力だけに頼ることと、驚くほど類似していないか?

思えば親は、私が子供の時分から早四十になろうという現在に至るまで、私がおしゃれを楽しもうとしたり、髪型を変えたり、恋人を作ったりするたびに、このようなメッセージを発してきたのだ。

小学校低学年の頃だったろうか。知り合いからお古としてもらった子供用のマーメイドラインのワンピースを、試しに私に着せてみて、親は言った。「ホステスみたい」と。その一言でそのワンピースは一度も着られずに捨てられる運命となった。

私は親の声色の中に、微妙な嫌悪感と軽蔑のニュアンスを感じとった。そして、それによって私の中の「娼婦である」ような部分が傷ついた(当時その言葉を知っていたかは別として)。

もちろん娼婦とホステスは同じではない。また、当時の私が現実に性的なサービスの対価としてお金をもらっていたということではない。ここで娼婦と言ったのは、「性的な魅力に物を言わせること」として考えていただきたい。そのように考えれば、ほとんどの女性またはある場合には男性も娼婦であることに間違いないのだが、この時私は自分のセクシュアリティが、「女性としての正しいセクシュアリティ」と「そうでないセクシュアリティ(ホステス)」とに分断されたように感じていた。「これはいいけど、あれはダメ」というふうに。

先日のやりとりで私はそのことを再認識されられた。私が大人になった今でも、親が私の中の「娼婦」性を嫌っているということを−−−。親にしてみれば、私が恋人を作ったり、おしゃれを楽しむことは、娼婦であることと同様に忌むべきことらしかった。彼らは多分を私を子供扱いしているのだ。そして彼らの理屈では、彼らが思う「正常」な判断を欠いた私の行動は私が子供である証拠以外の何物でもないのだろう。

しかし彼らがこのように考えるのは、彼らの頭の中に、「女性がおしゃれをする」=「性の客体として利用される」という固定化された図式しか存在しないからかもしれないと私は思った。

私はただ、自分が性的な存在であることも含めて自分を楽しみたいと思っているだけなのだ。

つまり、性の「主体」であろうとしているだけなのだ(私はここで、性的欲望の「客体」にされることに喜びを見出すマゾヒスティックな「主体」を否定しているわけではない。それはそれで良いと思う)。

そして、このような主体としての私の欲望を仮に抑圧した場合に損なわれる私のQOL (quality of life)について、親が保障することは不可能だし、第一彼らはそれを意に介さないだろう。

小学生のとき、クラスの数名の男子が、クラス全員の前で腰をくねらせるセクシーなダンスを披露した(これは恐らくマイケル・ジャクソンの影響ではなかったかと思う)。私はクラスメートらと共にそれを楽しんだが、同じことを自分がしたら怒られるのだろうか、と考えると複雑な気持ちだった。

なぜ男の子がすると笑って受け止められることも、女の子がすると眉を顰められるのだろうかと私は納得がいかなかった(もちろんその逆の反応になる振る舞いもあるとは思うが)。

こういったことの積み重ねにより−−−もし自分が男だったら−−−私は性的な存在としての自分や「女性であること」をもっと楽に自由に楽しめるんじゃないか(時には娼婦のような部分も含めて)?と感じたことが私をBLに向かわせたのだと思う。

余談だが、私がおしゃれすることを喜ぶ男性の中には、彼らにとっての「客体」としての私のみを見ている人と、主体としての私を応援してくれる人が両方いるのはもちろんのことである。

さらなる余談。

腐女子には「非モテ」を自認する人が多いとされるが、その心は「客体」としてのみモテるぐらいならモテなくてよい−−−とする不敵な笑いなのかもしれない、とこれを書きながら私は思った。「非モテ」は、「主体である」という選択をしたことの勲章なのだ。

そうは言っても、主体としてだろうが、客体としてだろうが、その両方でモテたいというという願望があることを私は否定しないが。そうすると、さしずめ「非モテ」はやせ我慢だろうか(笑)。

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