フェミニストはマゾヒズムがお嫌い?

微風が仄かな花の香を運んでくる春の夕べ−−−−。

あなたは親しい友人らと共にディナーのテーブルにつき、今まさに好物の料理を口に運ぼうとしている…。するとそこへ突如一陣の風と共に覆面の人物が現れ、あなたの耳元で次のように囁く。

「あなたは覚えていないかもしれませんがあなたがその食べ物を好んでいるのは、幼少期のトラウマの影響です」

「それを食べ続けていては幸せになれません」

「あなたはその趣味を捨て去るべきです」

言い終わるが早いかその人物は訪れた時と同じようにあっという間に視界から消えてしまった。

友人たちが何事もなかったかのように食事を続ける中で、あなたは考え込んでしまう。

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思春期以降、女性の性的なマゾヒズムに対するフェミニズムの見解に接したときに私が感じた困惑は、ちょうど上記のようなものだったと言ったら、少しは当時の私の心境を分かってもらえるだろうか?

私は、小さい子供の時分から性的なマゾヒズムを持っていた−−−−と自分では思っている。具体的には、縛られたり、自由を奪われたりすることを想像しては性的に興奮する傾向があった。

しかるにフェミニズムは、女性のこのような欲望−−−−特に男性の欲望の対象となることに興奮するような性質の欲望−−−−またはそうでなくとも女性の性にまつわる欲望全般をどうやら「男社会から押し付けられたもの」と見なしているようだ、と私は折に触れて感じるようになった。少なくとも、フェミニズムが私の性欲を応援してくれているように感じたことは、その当時皆無であった。

フェミニズムは、男性の女性に対する暴力を糾弾するとともに−−−−私としてもそれ自体に全く異論はないのだが、というか性別がどうあれ暴力には反対だが−−−−私のようなタイプの欲望の持ち主についても「男社会」に迎合するものとして糾弾しているように私には感じられた。

それにしても、自分の欲望を「男社会に押し付けられたもの」と見なす、などという考えは、私にとって不名誉極まりないことだった。

もし私の性欲が自然的なものではなく、人工的に「他者から押し付けられたもの」だとしたならば、私が自分自身の性欲を大事にすることは、私がどんどん他人の言いなりになって主体性をなくし、不幸になることにつながるのではないだろうか?そして私の性欲は恥ずかしい異常なものであり、治療しなければならないものということになりはしないか?もしフェミニストの言うことが本当なら、私は自分と性欲の形がぴったり合うパートナーを見つけることは一生無理なのではないか、なぜなら、そいつらは全員犯罪者に違いないだろうから、とさえ私は考えた。

今では笑って、なおかつ自信をもって「そんなバカなことはない」と言い切ることができるのだが、当時の私にとってこれは全く笑えない冗談だった。

私はフェミニズムが歴史上果たしてきた役割、今も果たしつつある役割を評価しているつもりだ。しかし当時の私は、それによってなおさら深刻な倫理的ジレンマに陥ったのだった。

しかも、フェミニストが言うように、ためしに自分の性欲を「押し付けられたもの」と見なしてみたところで、私自身はちっとも気分がよくならないし、欲求不満に陥るだけでなく、マゾヒスティックな欲望を自分が捨て去ることは不可能だということを痛感する結果になる、という有様だった。

私は、「暴力に反対である」という私の立場と、自分のマゾヒスティックな性的ファンタジーの両方を説明することのできる、より高次の理論で武装することなしには、もはや安心して1秒も生きていくことができないという結論に達した。

私はこういった疑問に取り憑かれて過ごした時間を無駄だったとは考えていない。なぜならこれを考え抜いたことによって私は−−−−政治家がSMについて「穢らわしい」と発言しようとも−−−−もし自分にぴったりのパートナーが見つからなくとも−−−−大手を振って通りを歩くことのできる心境になれたし、積極的に自分に合うパートナーを見つけようという気持ちになることができたからだ。

そしてBLは、このような悩みに関しても、私と同じような形の欲望を持っている女性は、決して世界に自分一人ではないし、そのような欲望を持つことと、現実の暴力に反対することとは問題なく両立しうるということを確信させてくれたのだった。

ごく最近になって私は、自分と同世代のアメリカのフェミニストが、旧い世代のフェミニズムを「女性が自らのセクシュアリティを楽しむことに罪悪感を抱かせた」として非難したということを知った。

この問題に関する現在の私の見解はこうである。もしある人が、自分の性欲の形を「押し付けられたもの」であると感じ、それを拒否したり排除することでより幸せになれるのだったら、排除することはその人にとって正しいことなのだ。しかし、それと全く同様に、ある人が自分の性欲の形に満足していて、そのことで自分も他人も不幸にすることがないのだったら、それは決して非難されるべきではない。その人にとっては、その欲望の形を大事にすることが正しいことなのだ。

ああ−−−−これで私はやっと安心して食事をとることができる。

男性のホモフォビアと腐女子〜フィクション中の女性は「既に女であることを受け入れた女」?〜

男性の友人の幾人かに、彼らの中にあるホモフォビアとは具体的にはどんなものかを訊いてみたことがある。それらを総合すると−−−−幾分私自身が個人的に受け取った印象も入り込んでいると思うが−−−−「もし自分が、男性に挿入されて気持ち良く感じてしまったら、人間として(あるいは男として)終わってしまうのではないか」というような感覚であると言う。

私は女性であるが、思春期にこれと本当によく似た感覚をもっていた。そして、その「人間として終わってしまう」という恐怖を乗り越えなければ男性と交わることができない自分と比べ、その恐怖を乗り越えなくても女性と交わることのできる男性の立場をとても羨ましく感じていた。

さらに、「挿入される」という受け身の立場について、その逆の能動的な立場よりも「劣っている」という感覚が私の中にあり、自分が挿入する立場の男性ではなく、挿入するかされるかを選ぶことのできるゲイの男性でもなく、性器の交わりのことに限って言えば−−−−男性と交わる場合には−−−−挿入されるしか選びようがない女性であるということが、なかなか受け入れられなかった。

そして、その立場を受け入れるということは、どこか自分の自尊心、競争心、より優れたもの、より良きものでありたいと願う人間としての当然の生き方を放棄・否定することのように思われ、それを放棄した自分がその後も果たして人間として生きていけるのかどうか、不安で仕方がなかった。

これに関して、私は周囲の大人たちに次のようなことを尋ねてみたかったのだと思う。

−−−−挿入されることは、実際に受け身な感じがするものなのか?

−−−−挿入されることについて「劣っている」と感じたことがあるかどうか?

−−−−もしそうだとしたら、それはセックスを経験することで変わったのかどうか?

−−−−もし、自由にどちらか選べるとしたら挿入される方を選ぶかどうか?

などなど…。

そして、このような「挿入されることに抵抗を持つ自分」こそが「真の自分」なのだという意識がどこかにあり、それが男性とのセックスといった外力によって−−−−体だけでなく−−−−心まで作りかえられてしまうかもしれないと思うことは、確固としたアイデンティティなんかとてもじゃないが持っていなかった当時の自分にとってかなり恐ろしいことだった。

当時の私から見て、こういった疑問をもっていないように見える大人の女性は、「話が通じない」または「人間ではない自分とは異質な生き物」であるように感じられたし、小説や漫画などの男女の恋愛やセックスの描写に登場する女性ときたら−−−−まったくもう−−−−どいつもこいつも「既に女であることを受け入れている女」にしか見えず、女であることを受け入れていない今の自分を重ね、感情移入することができる人物がそこにはいないのだった。すると必然的に、まだ完全には大人になりきれていない同年代の若い男性が、もっとも自然に自分を重ね感情移入することができる対象となるのだった。

これはまさにBLの主人公そのものではないか。

BLは、こういうメンタリティーのまま何の抵抗もなくスッと入っていくことができて、出てくるときには、絶対に越えられないと思っていた一線を仮想現実の中であっさりと−−−−しかも気持ち良く−−−−越えさせてくれるツールなのだ。

BLの主人公は、少なくとも私が思っている「女」のようには、挿入されることをすんなりと受け入れたりはしない。そういう状況になると、「女」であれば絶対にしないような抵抗を示したり、「女」であれば絶対に言わないようなことを言ってくれる。そこがドンピシャに感情移入できるポイントなのだ。そして不思議なことに、挿入されることへの抵抗感を、主人公に感情移入して充分に表現した後では、当初の抵抗感は軽減しているものである。

その後は、作品によってかなり異なると思うのだが「受け身も案外いいものだな」とか「実際自分はこの方が好きだ」と思うかもしれないし、受け身ではない形での挿入される体験が得られる場合もあるだろう。それから受け身の中には「甘えられる体験」といったものもあるということに気がつくかもしれない。そして、「挿入されることは受け身なのか?」という当初の疑問については、「YesでありNo」そしてそれは「悪くないもの」であり、ときには「物凄く良いもの」と感じるようになるのだ。

タブーを見直す

性に関するコミュニケーションには様々なタブーがあるけれど、それは私たちを守ってくれているものでもある。

もちろん人を傷つけないための繊細さや思いやりは大切。

だけど中には「ただ何となくそういう習慣になっているから」というだけの決まりごとや、「思い込み」みたいなものもあるように思う。

社会の中のそういう目に見えない枠組み?みたいなものに揺さぶりをかけることができたら、私は幸せ。

揺さぶりをかけられたそれは、やがて色んな人の力が加わって、みんなが居心地の良い方向に組み換わっていくのではないかな、と私はかなり楽観的に思っているのです。

体に合わなくなった服を取り替えるように、蝶が蛹を脱ぎ捨てるように、私たちは変わっていくことができるのではないかな。

座談会レポート

昨年12月、私のエッセイを読み興味をもってくれている女性の友人たちを集め、座談会を行った。会のサブタイトルは〜ボーイズ・ラブを通して語る「自由とは?」〜

ちなみに、私のエッセイや座談会に興味を持ってくれる女性の方の、約半分ぐらいは、人生で一度もBL愛好家だったことはなく、今後もそうなることはないだろうという人たちである。残りの半分は思春期から青年期にかけて、通過儀礼のようにBLないし「やおい」のお世話になったという方。そして私のエッセイがきっかけで大人になってからBLに目覚めた人も。

いずれにしても、エッセイをきっかけとして、自分の中で自覚することにさえストップをかけていた様々な感情に気づき、それを、場合によっては「生まれて初めて」人と分かち合うということに、ワクワク感をもっている人−−−−。自分も含めそういう人が一番多かったかもしれない。

というわけで、私たちを結びつけているのは必ずしもBLではなく、一番は「性に関することを楽しく安心して話せる場があったらいい」というニーズなのだ。そもそもBLは、女性が持っているこうした潜在的なニーズに対する一つの「解決」として生み出されたという側面があると私は思っているのだが、この会ではそのニーズをもっと直接的に−−−−つまりは必ずしもBLを媒介とせずに−−−−満たしてみよう!ということを企てたのだ。

12月の座談会では、それぞれの参加者が「BLの、エッセイの、または座談会の何に惹かれて、あるいは何が気になって座談会に参加したのか」について、二人一組でよく話し合って明確にしてもらった。次に、「その人が惹かれている/気になっている何かは、普段その人が無意識に抑圧していたり、表現することを躊躇ったりあきらめたりしていた感情や欲求を解放し、自由にしてくれる糸口ではないか」と私は考えているので、「自分が惹きつけられている/気になっている方向性に沿って、普段の自分がもっている抑圧や抵抗、あきらめから100%自由な存在」についてイメージを膨らませてもらった。

以下は座談会に参加してくれたカウンセラーのTakoさんが、ワークについてシェアしてくれた内容である。

結局わたしが気になっていたのは、

セックスも含むコミュニケーションのことだと思う。

Takoさんはエクササイズの時、かつてのパートナーと、セックスについて言葉を通してのコミュニケーションができなかったことが頭に浮かんでいたと言う。さらに彼女は、かつて女性同士でも「セックスについてのコミュニケーション」を持つことができずにいたとのこと。最近になって、私や、私の友人たちとそのことについてコミュニケーションができるようになり、そこで味わった楽しさや解放感が忘れられず、座談会に参加することになったのだという。

そのことについてワークして、わたしが求めるものを体現する自由な存在を思い浮かべた時に出てきたものは、

裸で、でん!と立つ女性だった。

で、その女性の性器のあたりに、黒々とした闇のような穴が存在していた。

それは黒い深遠のようで何も見えない未知の世界だった。

それは何かを引きずりこむ黒い穴でもあり、

何かを生み出す大いなる黒い穴でもあるようだった。

しかしそれは黒々と何も見えず、

そこに何があるか、人々も、それを持っている女性自身にも未知のものだった。

その未知のものを、自分自身でさえ恥ずかしく思ってしまうというのがこれまでのわたしに起こっていたこと。

しかしその女性は堂々と立ち、その深遠の闇である穴をさらしていた。

この日、私を含め他の参加者がワークして辿り着いた人物像も、どこかしらこれと似たものが多かったように思う。

この穴・闇は、女性器そのものかもしれないし−−−−実際その中を見ることはできないからね−−−−「女性性」みたいなものかもしれないし、女性が「男性には関係ないことだから言ってもしょうがない」と思って言葉にすることを怠ってきた色んな経験のことかもしれない。

自分のもつ闇、未知の部分を恥じ、隠すのではなく、そこに「それ」があることを認め、むしろ「これって不思議だね」と愛で慈しみ、堂々と自分にも他人にもその存在を誇示し、それと共にあること−−−−。

ああ、そのようなもので私はありたい!

というわけで、私も含め主催者側も参加者の熱に大いに触発される会となった。

これを敢えてBL風に言うなら「胸張ってこうぜ!バディ」ってとこか?

痛い青春

「セックスがしたい。ただし挿入されるのでなければ」

というのがあの頃の私の正直な気持ちだった。

 

多分、私はとても怖がりなのだ。

 

そして、初めてのときはどんな相手がいいのか考えてみるに

童貞か少ししか経験のない男性?

−−−−いや、とんでもない!

処女とセックスした経験のない人?

−−−−いや、とんでもない!

……

てな具合。

 

いや、そもそもまず

「挿入されたことのない人に挿入される」ということ自体が

とても微妙なことだと私は思っていた。

 

いやいや、だって普通でしょ?

注射された経験のない医者に注射されたいと思わないでしょ?

真面目な話。

 

そんなわけで

どこか「両性具有的な匂いがする」と私が勝手に感じることのできる、

女性としての先輩でもあり、なおかつ異性愛の男性であるような男を私は求めていた。

 

お互い好きになれて、セックスをしたいと思える関係というのがまず大前提であり、その上にさらにこれだけの条件を付け加えたら、これらをすべての条件を満たす人物を、自分のお粗末なコミュニケーション能力の範囲内で見つけ出すのは至難であり、それを考えるにつけても「長くお付き合いができそうか」などという基準は、私の中ではるかに優先度の低い事項ということになるのだった。

 

昔祖父が、ちょくちょくお世話になっていた病院で、

注射をすると聞いて逃げ帰った話をしてくれたことを

私は思い出す。

なんでもそのお爺ちゃん先生は、注射がどうしようもなく下手ッピーだったらしい。

若い頃から下手だったのか、年をとって手元が狂うようになったのかは不明。

奥さんのナースは注射の手際が良かったらしいのだが、処置室に通された私の祖父は、お爺ちゃん先生の方が注射を担当するのだという気配を感ずるや否や、診療費だけをその場に残し病院を飛び出したというのだ。

 

−−−−いやぁ、おじいちゃん、私も同じ気持ちだったよ!

と私は心の中で叫ぶのだった。

寝室から職場まで

会社の中で本音を言えない日本のサラリーマンの生態について、ホリエモンと厚切りジェイソンが対談していた。(敬称略)

「Why? 本音を言えない日本人」最終回(NewsPicks イノベーターズ・トーク)URL: https://newspicks.com/news/1404255/body/?ref=search>

堀江:(略)日本人は「仲がいい相手とはすべての意見が一致しないといけない」と考えてしまう。

(中略)

堀江:俺はね、ハッキリ言うんですよ、偉い人に対しても。「いや、○○さん、それは違うと思いますよ。間違っています」と。するとシーンとなっちゃって、「それ言っちゃダメだよ」っていう雰囲気になるからね。

厚切り:いやいや、そう言うことによって相手の意見をきちんと説明する機会を与えることになるし、話し合えるでしょ。その結果、かえってお互いに理解が深まることになると思うんですけど。

堀江:それができるのは、日本ではごく一部の人だけ。意見の違いを理由に仕事を干されてしまう人、よくいるんですよ。本音を言い合うことに慣れていないんですよ、日本は。若い頃からディベートの訓練を受けていないという理由が大きいと思うんだけどね。

(中略)

厚切り:その教育がなされていないのはなぜ? 必要だと思われていないから?

堀江:意見の相違を尊重し合える教育が重要、と思っている人たちが少ないってことでしょう。特に意志決定するリーダーたちの理解が足りない。

この対談では主に、上司に不満を言えない部下のシチュエーションについて取り上げていた。

上の立場の人が自分と違う意見を尊重できないということは、違う意見を持つ部下の存在によって、自分が脅かされる感じがするからだと私は思う。そしてそんなふうに脅かされると感じるのは、その人自身、本当には自分自身を肯定できていないから。だから自分を肯定するのに自分が他人と同じであることを必要とする。

こういうナイーヴで繊細、傷つきやすい部分は日本人が他人への気遣いができる所以でもあるんだろうけど、要は、傷つきが簡単に許容範囲を越えちゃう人が多いということだろう。そして、一度許容範囲を超えちゃったら相手を嫌いになって簡単にコミュニケーションを閉ざしてしまう人が多いということだ。

これを図式化すると、「意見が違う」→「自分を否定されたと思って傷つき、この相手とは信頼関係が築けないと思う」→「話してもムダ」ということだ。だから、部下の立場では上司の許容範囲を慎重にうかがいながらコミュニケーションするというのが、一般的な日本人のあり方なのだろう。

意見の違いを超えて対話するには、「意見が同じ」ということに基づかない信頼関係が必要になる。双方に「意見の違う相手との対話には意味がある」という共通認識が必要なのだ。たとえその過程が双方の痛みをともなうとしても−−−−。

このパターンって何かにすごく似ているなーと思いながら、私はお二人の対談を聴いていた。職業柄、私は人の悩みを聴く機会が多い。それもどちらかというと女性の悩みを。女性たちが夫や恋人といったプライベートのパートナーとの関係で抱える悩み−−−−これがまあ、驚くほどこの対談で語られていることとそっくりなのだ。

「日本では、セックスについての意見や好みが違うパートナーとじっくり話し合い、互いの理解を深め合うということができるカップルはごく少数である。自分の好みや要望や不満を言うことで、相手に嫌われちゃうんじゃないかという心配から結局何も言わずに相手に合わせる人が多い。そうしているうちにセックスは、もはや楽しいものではなく苦痛に変わってしまう。そのためセックスレスになるカップルも多い。解決策としては性教育の中にセックスに関するコミュニケーションなどのテーマを設け、自分の要望の伝え方や相手への配慮の仕方についての訓練を積むことが必要。ところが意思決定するリーダーの間でこういったスキルが必要というコンセンサスがないため、なかなかそういう方向には行かない」

いやあ、びっくりしませんかこれ?

あなたは本音を言えない相手とセックスでしたいですか?

意思決定するリーダーが動くまで待てますか?

一つだけ言えることは、あなたの寝室でのコミュニケーションを変えることは、日本を変えることにもつながるってことですね。

涙は女の精子⁈

「そうか、涙は精子だ!」

と彼が言った。

私は意味が分からず頭が真っ白になった。

女性の涙を苦手とする男性は多いらしい。

恋人が「今度会う時泣かないでね」と言うので、「そんなの会ってみなくちゃわからないじゃない」と言ったら、「感情だからしょうがないってことだよね」と彼。彼の家族は、彼を含めてあまり泣くことがないらしく、私の涙に戸惑うらしい。

「いや、泣くのはいいことだよ。でも、なんで会っていきなり泣き出すのかがわからないんだ」

「普段我慢してるものが、安心できる人に会った途端溢れ出すことってあるでしょ?安心して感情を出せる人がそばにいなかったり、自分の中にそういうスペースがない時」

すると彼は得心したように、冒頭の名ゼリフを吐いたのだ。

落ち着いて考えてみるとどうやら、私にとっての涙が彼にとっての精子に似ているということが言いたかったらしい。

親密な関係の相手にしか出さない、という意味で。とんちんかんなことを言うと思ったが、私の言いたいことは伝わったようだ。

男性のみなさん、もし恋人があなたに涙を見せるとしたら、それはきっと彼女があなたを信頼しているから−−−−。

女性のみなさん、貴女がもし恋人に涙について問われたら、「涙は女の精子」と言ってみると、案外通じるかも。いや、保証はできませんが…。

腐女子は自らの女性器をどう捉えているのか?〜「やおい穴」をめぐる議論に思う〜

BLでは「受け」の男性の体のある部分、つまり「攻め」の男性の男性器を受け入れる部分が、まるで女性器のように機能しているように描かれているのが、現実にそぐわずおかしいのではないか、という議論がある。

これについては、BL愛好家の間でも実に様々な意見があるらしい。

私がその議論を見ていてちょっと「不思議だな」と思うのは、BL愛好家の女性が、自分の女性器についてどう思っているのか、という視点がすっぽり抜け落ちているところ−−−−。

みんな、女性器は男性器を受け入れることについて、いつでも問題なくスムーズに機能するものだと、根拠もなく勝手に思ってるみたいなんです。

だけど、そもそもまだ一度もセックスをしたことがない若いBL愛好家も大勢いると思うのですが、彼女たちは「自分の女性器はスムーズに男性器を受け入れられる」なんてホントに思ってるのかしら?

自分はそういう年齢のときにはとてもそんなふうに楽観的にはなれなかった。そしてセックスへの欲求と同時に不安や恐れが一杯あるからこそ、自分はBLを求めたと思っているので、そういう状態のときに「男性の肛門・直腸を女性器と同じように描くのはおかしいのでは?」などという批判に曝されなければならないとしたらそれは結構酷なことだと思う。

学校の性教育でも初めてのセックスに伴う痛みについてはあまり教えていないようだし、自分の女性器がどう機能するのかさえ実地には知らない女性にそれを突きつけるのってどうなのよ?そのときに、みんなが女性器はスムーズに機能するという前提を暗黙のうちに持ってるらしいのも、ものすご〜く変に思える。でも私もそんなふうに話を振られたら、その前提に乗っかって話しちゃうかもしれないと思わせられるのが、この話の怖いところ。だって「変な女」と思われたくないから(悪)

私の初体験のときはと言えば、「飛び上がるほど痛い」というのが比喩だったらまだいいのだが、私の場合実際に飛び跳ねてしまうので、屈強な肉体を持った当時の私のセックス・パートナーも私を捕まえていることができず、お互いがセックスしようと望んでトライを始めてから三日目まで全く挿入には至らなかった。三日目になったところで、私たちはようやく彼の体重の全てを私の両太腿に乗せることで何とか挿入できそうということを発見し、やっとこさでほんの少し挿入できたという具合だった。

信じられないかもしれないが、そのとき私はとても幸せだった。私はあの日の二人を戦友として讃えたい。

もちろんスムーズにいくならそれはそれで良いことと思うけど、私はいろんな人に訊いてみたい。「あなたはどうだったの?」「簡単でしたか?」と。

それから「やおい穴」について議論している人には、ぜひ一度CockyBoysを見ることをオススメしたい。CockyBoysはニューヨークを拠点とするインターネット視聴に特化したゲイ・ポルノ・メーカーで良質な作品を量産している。見るにあたっては、日本での視聴は映像が修正されていないため違法となる可能性が有るので、自己責任で見る場所や視聴の方法を判断してほしい。それを見れば、彼らのセックスが男女のそれと比べてスムーズでないなどとは少しも思えないし、挿入する方の男性が愛情をこめて自分の唾液で相手の開口部を濡らしているので、濡れないからセックスが困難などとは全く見受けられない。さらに、ごく自然に挿入する人とされる人が入れ替わってセックスする様子も新鮮でハッとさせられる。

私が言いたいのは「みんながこうだ」ということではなく、物事は一概には言えないということである。

女性の場合も前立腺はないけれど、肛門の入り口は普通に気持ちがいいと思うんですが、あなたはいかが?

 

思春期の君へ、あの頃の私へ

若い頃はどうしてあんなに性に関する話をすることのハードルが高かったのだろう?

この年になってみると、それについて話したところで失うものなんか何もないように思えるのに。

まず子供の頃はそれについて話す言葉を持たなかった。

さらに、それに対する大人の反応はどこかぎこちなく、急に腹が痛くなったか大事な用事を思い出したか、訃報に接した人のように不自然で、大の大人をそんな風にうろたえさせるということはどこか恐ろしく、こちらまで居心地悪くなるのだった。

それでも子供の特権でわざとどぎついことを言ってみたりするのだったが、自分が物を知らないということを見透かされてるようで恥ずかしくなった。

思春期になると、しばらくの間は同年代で性に関する話題に花を咲かせたものだが、そのうちに−−−−今になってみるとバカバカしいほどちっぽけなプライドのために−−−−経験がないということが急に恥ずかしくなり、話をする機会もめっきり減ってしまったのだった。

藤本由香里が「女性は視覚では欲情しない」というような文章を若い頃読んだばっかりに、自分は男ではないのか、と真剣に悩んだという経験を書いていた(『快楽電流〜女の、欲望の、かたち〜』より)。私も随分この手の「女性は〜しない」というような言説に右往左往させられて悩んだ覚えがある。

なぜだか知らないが性に関する体験は、自分と一般とを引き比べて「自分はどこかおかしいのではないか?」と人を悩ませるケースが多いような気がする。−−−−特に若い時分には。

こういうこと一つとっても、もう少しオープンに性について話題にできたり、性に関する個々人の多様性を自然に認め合うような文化・風土があれば、それほど悩まなくて済むようなことばかりではないだろうか?

思春期の頃の私は、大人の女性たちが性についての一般的な知識などではなく、「私」を主語にして性に関する自分の生き方、自分独自の考え方などをオープンに語ってくれないことに対して、かなり不信感をもっていた。女性が性について話すことへの抑圧がある社会というのは、思春期の自分にとって全くフレンドリーではなかった。

さて、大人になった私はある日はたと気づいたのだ。自分が個人的に性やセックスについて困ることがなくなったからと言って、それについて押し黙っていたら、私の行動もまた、思春期の頃の自分が嫌っていた大人の女性たちと何ら変わりがないという事実に−−−−。

こんなことでは世代を重ねてもちっとも人類は進歩しない。100年後の少女は私と同じ問題で悩むのだろうか?もちろん現代にしたって昔に比べれば少しずつ状況は改善されているとは思うが。

そういうわけで、思春期の自分に恥じない生き方をしたいという、それ以上でもそれ以下でもないのですが、「私」を主語に性に関する発信をしていきたいのです。