「性の多様性」は異性愛女性である私にとっても重要

個人的に気になったニュース記事の感想です。

トランスジェンダーの漫画家が伝える 「教師にやめてほしいこと」(杢田光)

トランスジェンダーで漫画家の小西真冬さん(@mahuyu524)は、自身の性と向き合うことから逃げていた10代の経験から、「小学生くらいのときから『性は多様性なんだよ』という情報を得られる教育があればよかった」とのこと。

実は私も同じように考える一人です。それは何もLGBTの人たちだけのためではありません。私自身のためにこそ「性は多様なんだ」というメッセージがあればどれだけ救われたかと思います。

といっても私はLGBTではありません。異性愛女性である私は、性自認や性的指向の観点からはマイノリティとは言えません。

ではどうしてそう思うのか?それは私が自慰(今風に言えばセルフプレジャーですが)を覚えた時期が幼稚園時代ととても早く、また同時期からSMの嗜好を自覚していたため、当時から「自分は他の人と違うのかな?」と悩んでいたからです。

というのも、子供向けのどんな物語に触れても自分と同じような経験について何も書いてないのです!。喜びや悲しみについてはいくらでも書いてありますが、性的な感覚については何も書いてありません。当時の私は、自分が世界中で誰もしたことがないような体験をしているのかと怖くなることさえあったんです。

当時の私にとって性は−−−−いわば「文明の真空地帯」「人類の叡智に見放された領域」と言っても過言ではなかったでしょう。

子供をこういう状況に放置するというのは、とても残酷なことではないでしょうか?

個人的な経験ですが、子供の自慰を見たときに、「自分たちはそんな恥ずかしいことなんかしてません」という顔をする大人って何なんでしょうね?代わりに「それはとても自然なことなんだよ」と言ってあげたいです。

といってもオナニーをするかどうか、いつ頃からするのか、ということに良い悪いはないわけで、みんな違っていいわけです。ですから性自認や性的指向の多様性はもちろんのこと、いわゆる性的マイノリティでなくても個人の性的な嗜好や性に対するスタンスや経験も多様でいいんだ、という教育がもし小学生の頃から受けられたなら、私も思春期以降、自分の性と向き合うことがもう少しスムーズになったんじゃないかな、と思うわけです。

私個人の体験について詳しくはこちらに記しました。(コミックマーケット94 2018/8/12日曜日 東地区ト-60b)

彼女の場合〜東大卒SM愛好家の精神科医がBLに救われるまで〜

 

コミックマーケット94に配置が決定しました。2018年8月12日、日曜日 東地区“ト”ブロック-60b (サークル名「腐女子の心の伝道師」)です。

そして、突然ですが、今回からペンネーム変更しました。

今回は100%自分の体験のみの内容です。楽しんでもらえると嬉しいです。

目次

SMの嗜好の始まり

覚醒と停滞

Sに目覚める

 

性教育について

SMの嗜好は病的なのか?

魂を取り戻す

セラピー

ロスト・バージンの美学

結婚と離婚

渡河を終えて

コラム:二次創作最強論

こちらのコラムを一言で表現すると、「おとぎ話を批判するぐらいなら、おとぎ話を元に二次創作してみたら?」という提案です。それから「二次創作を利用してお子様や自分の創造性や主体性を育むのはどうでしょう」という提案です。

普段やらない二次創作に挑戦してみました。

二次創作こそ最適論〜 白雪姫の王子のキスは 準強制わいせつでは ないかという ツイートを巡って〜

はじめに

「『白雪姫』の王子のキスは『準強制わいせつ』ではないか」というツイートがネットを騒がせている。発信者の牟田和恵教授は、社会学とジェンダー論を専門とする学者であり、ベストセラー『部長、その恋愛はセクハラです!』の著者でもある。

短いので全文を引用する。

白雪姫とか眠り姫とかの「王子様のキスでお姫様が長い眠りから目覚めた」おとぎ話、あれも、冷静に考えると、意識のない相手に性的行為をする準強制わいせつ罪です。「そんなの夢が無い」との反応あるかと思いますが、逆にこんなおとぎ話が性暴力を許している、との認識に至っていただきたいものです。 @peureka2017/12/11)

(上の写真はluffy2009さん撮影)

親御さんの本の選択はもちろんご自由ですが、王子というだけで突然女性にキスする、なんて話、気持ち悪くないですか?男の子にそんなDV男に育ってほしくないし、女の子にはそんな無力な被害者になってほしくないですよね?ひたすら受け身の女の子が幸せになる、みたいな教訓ですか?  (@peureka2017/12/12)

なおこのツイートは、9月に大阪の電車内で発生した「眠っている女性に男がキスをした」という事件(http://www.news24.jp/articles/2017/12/11/07380223.html)で、男が準強制わいせつ罪で逮捕されたという12月11日の報道を受けてのものである。牟田はこの件に関しその後、女性と女性の活動をつなぐポータルサイト“women’s action network(WAN)”に、よりまとまった量の文章を寄稿している(https://wan.or.jp/article/show/7589#)。

なお筆者は、この件のような性暴力の発生を防ぐという目的に関しては全くもって賛同しており、「性的同意についての教材を作る」というキャンペーン(https://camp-fire.jp/projects/view/46642)にも参加している。

また、おとぎ話が性暴力を許す風潮を作っているかどうかについて、筆者は牟田とは異なる意見を持っているが、そのような懸念があるということ自体は重要な指摘であり、研究する価値のあることだと考えている。

しかし、本稿では、おとぎ話について別の見方もできることを示し、私なりの解決策を提案してみたいと思った次第である。

女の子=お姫様、男の子=王子様?

フィクションやファンタジーの良いところは、女の子であってもヒーローに感情移入できたり、男の子であってもヒロインに感情移入できるところではないだろうか?

小倉千加子は『セクシュアリティの心理学』の中で、一般的な異性愛女性の中で少なからぬ割合の女性が、マスターベーションの際に男性となって女性とセックスをするファンタジーを楽しんでいるという調査結果を紹介している。

脇道にそれるが、世の中にフィクション中の異性に感情移入したことのない人がどれ位いるのか、年齢や性別による違いがあるのか、というのは興味深い疑問である。

しかし親自身の心にそのような柔軟性がなければ、子供が「自分と同じ性別の登場人物にしか感情移入してはいけない」と受け取る可能性はある。おとぎ話に触れた子供が「現実の女の子=無力」「現実の男の子=勝手にキスしてもいい」と受け取るようであればそれは、大人による物語の提示の仕方にも一因があるのではないだろうか。

白雪姫は被害者か?

王子がキスした時点で、白雪姫は死んでいたのであり、王子のキスに対してYesかNoかを表明できない状態にあった。王子のキスは、白雪姫が今後意思を表明できる状態にしたという意味で、白雪姫にとって救済ではないだろうか?

おとぎ話の深層心理学的な解釈

ユング心理学には、長く語り継がれたおとぎ話は民衆の深層心理の表れである、と考える。これはどういうことかというと、「王子」は男女問わず、人間の能動的な

「自我」の象徴であり、「死んでいる白雪姫」は人間の無意識の自我意識に対する受動性を表していると考えるのである。未熟な段階の自我は、自我を産み育てるとともに飲み込み殺してしまうグレートマザー(物語中では悪い母親像や怪物として表れる)と分離できず、異性像で表される自らの魂(アニマ・アニムス)と肯定的な関係を結ぶことができない。成長した自我が、怪物などの敵を倒し、グレートマザーと分離して初めて、自らの魂や現実の異性とも実りある関係性を持つことができると考えるのである。

つまりこれらのおとぎ話は、男女問わず自我と魂の関係の成長過程を表しているという見方もできるのである。

最適解を探る

そうは言っても牟田が言うように「女の子=お姫様=受動的、男の子=王子様=能動的」というような物語の受け取り方も可能なことは確かであり、社会に影響を与えていると言われれば、完全に否定することもできない。

牟田は「親御さんの本の選択はもちろんご自由」と言う。しかし同時に牟田にとってこの物語は「気持ち悪い」のである。私の中にも牟田に同意する気持ちが10%ほどはあることを認めよう。

それではこの問題についての最適解とはなんだろうか?あなたはこの物語を子供達に伝えたいだろうか?それとも伝えたくないだろうか?

−−−−そのような二択の中に最適解はないというのが私の答えである。

−−−−ではどうするのか。

物語を伝えた上で、いろいろな例を示して子供達の多様な感じ方を引き出し、肯定し、ちょっとでも物語に気に入らないところがあれば、自分で新しい物語を作ることを−−−−即ち二次創作をするようことを−−−−促すのである。

これ以上に子供の主体性を肯定する方法があるだろうか。不満を言うだけでなく、新しい文化を創造する道を教えるのである。

そしてこれこそが、おとぎ話の夢を壊すこともなく、誰も気持ち悪くならずにすむ方法ではなかろうか。

こんな二次創作はどうか?

 王子は神のお告げにより、自分がキスをしたら白雪姫が蘇ることをあらかじめ知っていた。しかし蘇った白雪姫が王子を愛するかどうかは神にもわからず、王子は蘇った白雪姫から愛されるか、嫌われてしまうのか、それを前もって知ることはできないのだった。

 迷いに迷った王子であったが、たとえ自らが嫌われてしまったとしても、白雪姫を見殺しにすることはできないと決意し、王子はキスをすることを選択した。

 そして、王子の無欲さと謙虚さに心を打たれた白雪姫は心から王子を愛するようになったのであった−−−−めでたし、めでたし。

 心なしか、この王子はよりヒーローらしくなった気がするから、私としては満足である。

全ての人を満足させる物語を作ることはできないかもしれない。しかしあなたや私が満足する物語を作ることはできる。

過去の人類の遺産を切り捨てるのでもなく、硬直した伝統を死守するのでもなく、文化を過去から未来へと創造的に紡いでいく責任は、私たち一人一人にあるのだ。(コミックマーケット93 12/31 東6地区ト−25b ではこのコラム以外にも頒布物を用意しています。)

冬コミ用原稿が完成しました。

 目次は下記の通りです。夏コミで頒布した冊子と重複する部分がありますが、内容を大幅に拡充しました。今回特に読んでいただきたいのは、第2章「思春期のアイデンティティ・クライシスの表現としてのBLと自己ギャップ萌え」です。私の主張の根幹をなす部分です。

目次

プロローグ BLが私にくれたもの

1. BLの意義についての先行研究の概観

先行研究1 中島梓(1998)『タナトスの子供達〜過剰適応の生態学〜』(筑摩書房)

やおいと現実の男子同性愛はあまり関係がない/ジェンダー規範からの逃避

先行研究2 野火ノビタ(2003)『大人は判ってくれない−−−−野火ノビタ批評集成』(日本評論社)

先行研究3 斎藤環(2009)『関係性の化学としての文学』(新潮社)

「女を演じる」苦痛/女性の内面が男性であるということ

先行研究4 溝口彰子(2015)『BL進化論〜ボーイズラブが社会を動かす〜』(太田出版)

進化するBL/自己決定権ファンタジー/受け手が作り手のファルスに共鳴する

2. 思春期のアイデンティティ・クライシスの表現としてのBLと自己ギャップ萌え

論点の整理/女性の思春期はアイデンティティの連続性の危機である/思春期のアイデンティティ・クライシスを笑いや快楽に昇華するBL/BLは女性の内的適応を促進する/女性による女性のための神話としてのBL/マゾも自己ギャップ萌えの一種である/自己ギャップ萌えから女性の快楽の特性を読み解く/攻めキャラのアイデンティティ・クライシスの表現

3. フェミニズムは必ずしも女性の性的欲望や多様性を応援してこなかった

女性の性的欲望を無視するフェミニズム/「反ポルノ」論者が作り出した新たな差別/欧米におけるフェミニズムの新展開(第三波フェミニズム)/フェミニズム第三波と腐女子文化の共通性

 4. 「異質を受容・肯定する装置」としてのBL

 5. レイプ表現に託された女性の欲望〜受けのファルスを攻めが受け止めるというBLに特徴的な構図〜(やまねあやの作「ファインダーシリーズ」より)

BLにおけるレイプ表現の意味〜先行研究の概観〜/「受けのファルスを攻めが受け止める」とは(やまねあやの作「ファインダーシリーズ」より)

 結論

 

自己ギャップ萌え?

夏コミで頒布したBL評論の冊子「女性による女性のための神話としてのBL」が、十分納得いく内容ではなかったので(どうも申し訳ありません汗)、今回は、その続編でなく、バージョンアップした内容で臨みます。

 今回BLを読み解くためのキー概念として、「自己ギャップ萌え」を発案しました。

この概念を使うとBLの感動やSMの嗜好をとてもうまく説明できちゃうのです。

そして、長年「何かおかしい」と思いながらもどこがどうおかしいのかスッキリ説明できずにモヤモヤしていたこんなこともうまく説明できちゃったのでした。

以下は頒布予定の冊子からの抜粋です。

自己ギャップ萌えから女性の性的興奮の特徴を読み解く

話がそれるが、漫画とセクシュアリティの研究者である堀あきこは、その著書『欲望のコード』の中で、男性向けのポルノグラフィと女性向けのそれ(BL以外の性的表現を含む女性向けコミック)との最大の差異は、「男性向けでは性的欲望の対象となる女性身体が描かれるが、女性向けでは男性身体に視線が向かわず、女性身体が描かれる点にあると指摘されてきた」ことを紹介し、「女性の性的欲望が女性の身体に向けられることは、男性中心的な性規範を内面化していることの表れとして捉えられてきた」としている。例えば、フェミニストで社会学者の上野千鶴子は、「女が性的に興奮するのは……男性の視線を介して<性的客体化>された自己身体に対してなのだ。女はそれほど深く客体になることを内面化してきた」とし、漫画研究家の藤本由香里は、「女という性がそもそも自己に固着しており、<男性の性的欲望をそそるもの>という迂回路を通ってしか自らを性的存在として認知しない傾向がある」と述べている。

しかし、私は「自己ギャップ萌え」の観点から、これに明確に反対する。

普段は主体的に生きている女性が、客体としての自己を意識したときに、アイデンティティ・ギャップもしくはアイデンティティ・シフトが生まれ、そのギャップが女性をエロティックな気分にさせる(残念ながらただ単に不快にさせる場合もある)のである。上野や藤本が言うように、普段から自己を客体として認識していたら、男性との関わりの中でアイデンティティ・シフトが生じることはなく、不快にもならないかもしれない代わりに、興奮もしないのではないだろうか。もちろんこれは健全な状態とは言えないだろう。

同様に−−−−この部分は自己ギャップ萌え理論ではなく、通常のギャップ萌え理論で説明されることだが−−−−普段は主体としての自分を尊重してくれる男性が、ときに自分を客体として扱うから興奮するのであって、普段から、客体としてしか自分を扱わないような男性に対して興奮を感じるだろうか?そこには何の意外性も非日常性もない。つまりドラマがないのである。

女性は男性の客体としての自己に興奮するのではなく、主に自己の−−−−そしてときに他者の−−−−アイデンティティのシフトに興奮するのである。自己のアイデンティティ・シフトに興奮する部分は、自己への固着と言えなくもないが、普段のアイデンティティに固着していたら、今度はアイデンティティのシフトを受け入れられないであろう。

次項では、自己ギャップ萌えのさらに別の側面について言及する。

表紙を作成しました

冬コミで頒布する冊子用の表紙を作成しました。今回もパブリックドメイン使用です。

配置決定!(コミックマーケット93)

2017年の冬コミに配置が決定しました。3日目日曜日 東地区”ト”ブロック25b サークル名「腐女子の心の伝道師」です。

エピソード2

次に中学生の頃の私の転機について述べよう。その頃私達は、学校教育やら、親からや、書物から、また同年代の友人達から、セックスについての情報を仕入れる年齢だった。

最初は恐らく、事実を表面的に受け止めていて、男女のセックスの肉体的な仕組みを知ったからと言って、自分の人生プランにさしたる変更を加えるほどのことではないと思っていた。

しかしそのうちに、次のような疑念が私の頭の中で渦を巻き始めた。それは「女性の肉体が、セックスに関して受け身にできているのではないか?」という疑問だった。端的に言えば「挿入される」=「受け身」なのか?という疑問だ。

さらに私は、その年になるまで、自分が女性だからという理由で何かできないことがあるなどとは思ったことがなかったので、自分が挿入することができないという事実に、単純にショックを受けた。そもそも当時の私は、「挿入したい」という明確な衝動をもっていたわけではないと思うのだが、それでもショックであることに違いはなかった。

読者は、私が「その年までできないことがあるとは思っていなかった」ということに対して驚かれるかもしれないが、私としても育つ過程の中で、女性だからという理由で制限される感じを全く持たなかったというわけではない。しかし、「女性らしくするように」という外圧に自分を合わせることは、自分がこの世界を生きやすくするための選択だという意識があったのではないか。しかるに、「挿入することができない」ということに関しては、もちろん自分が選択したこととは思えなかったのだ。

話を戻すが、この時恐らく私の頭の中には、「挿入される」=「受け身」=「劣っている」という単純な二項対立的な図式があり、そのような価値判断によっても私は傷ついたのだと思う。こういった図式が、その名も「男根中心主義」と呼ばれるものであることは、後から知った。つまり、私がこのような感じ方をしたことには、文化的社会的な妥当性があるということだ。

また、このような感じ方を、当時の私の個人的な人格発達上の未熟性に帰すこともできる。思春期・青年期という、アイデンティティを確立していこうとするまさにその途上にあって、世界と能動的に関わる経験を積むことの大切さは計り知れないものがある。

今の私であれば、「挿入される」ということにある種の「受け身」性があるからと言って、性的な人間関係や人生自体に対して受け身である必要は全くない、と当然のごとくに思えるのだが、当時はそのように割り切ることが難しかったし、「挿入されるという受け身を能動的に行う」具体的で魅力的なモデル像というものが私の周囲には不足していたのだろう。

さらに私にとって決定的に悪かったのは、周囲の大人達が、私がよもやこういった事柄に傷ついたりショックを受けたりする可能性があるなどとは想定していないように見えたことである。

たとえ大人達が想定していなくとも、私自身に自分の傷つきを声高に言ってのける強さがあり、それを受け止めてくれる社会であったなら、私の傷つきはもっと軽くて済んだことだろう。さらに、世界と自分自身をもっと肯定することができていただろう。

そうだったらよかったと心底思うのだが、当時の私は残念ながらそのような力を持ち合わせていなかった。また、「異性として男性に求められたい」という願望も私は持っていたため、このような女性として「普通ではない」−−−−というふうに考える必要もないと今では思うのだが−−−−ように思える感情を口にしても何も得することはないかと思ったのかもしれなかった。

こんな風にして、実際には世間的な圧力と戦ってみることも何もしないうちからその圧力に屈し、自分にとってはごく自然な感じ方を−−−−同年代の女性達の間でほんの少し口にする以外では−−−−はっきり言葉にする機会もなく、自分で自分を黙らせてしまった私は、この傷つきから回復するために人の助けを借りることができなかったばかりか、同じように傷ついている人が果たしてこの世にいるのかどうかということをはっきりと確かめることもできなかったのだった。そして「こんな感じ方はこの世で自分ただ一人かもしれない」という考えは、私に大変な恐怖と孤独の感覚をもたらした。

繰り返しになるが、もしこのとき私が、自分の傷つきを言葉にして誰かに伝えることができていたならば、私は「受け身」であることの傷つきに対して「主体的に対処することができた」という自己効力感を持つことができたのではないかと思う。しかし、「受け身」であることの傷つきに対して、他力本願的に、まさしく「受け身」的にしか対処できなかったことがこのときの私の問題であった。

上記が、挿入されることの「受け身」性についての私の傷つきだが、女性が初めてセックスをするときの肉体的な痛みについて知るようになると、そのことによっても私は傷つき、かつその時の痛みに対して大きな恐れ抱くようになった。そして、痛みへの恐れが「ますます私を受け身的にするから」という理由で、そのような痛みを生み出す人間の肉体を憎んだ。

このように、男女のセックスの肉体的な仕組みを知るということがきっかけで生じた傷つきによって、私のそれまでの人生観は根底から覆された。

その傷つきは−−−−誤解を恐れず言うなら−−−−私という存在が「世界や神(私は特定の信仰をもっていたわけではなかった)から愛されていない」という、宗教的な破局の感覚をもたらした。そして、私をこのような苦悩に陥れた人間世界、さらにはこのような生殖の仕組みを造り出したと考えられる自然に対してまでも、怒りと憎しみと復讐心を私は抱いた。幸いにして私はそのような行動には至らなかったが、こういう行き場を失った感情が、場合によっては無差別殺人などの凶行に人を駆り立てたとしても私は全く不思議に思わない。

上記の通り、思春期の私は自分の感じたことを公にすることができなかったわけだが、内面の空想世界に限って言えば、こういった感性を大事にすることを少しも諦めたわけではなかった。「女性は挿入されるものなのだ」と何の疑問ももたずに受け入れているように見える女や男の大人たちは、私の目にはどうしようもなく鈍感な人間に映った。

まあ確かに、私がどんな意志を持ったところで、人間のセックスの生物学的な仕組みが根本的に変わるわけはないだろう。かと言って、全く変わらないと思うのも極端な考えである。

自分の感じたことを外に向かって言わないのは、若くて権力がないから仕方がないにしても、もし自分の内側においても何もなかったことにしてしまったとしたら、一体その後の私はどうなっていただろうか?

「我思う、ゆえに我あり」−−−−そう、あの時の私にとっては、このような人に言えない自分の感性を自分の内側だけでも保持し続けることが、そのまま自分の存在を賭けた行為であったのだ。

さらに、「疑問を持つ」ということは「自由な精神をもった人間」の特権であり、何も疑問を持たずに受け入れるということについては、「動物の所業」といった具合に捉えていたのだった。

あの時もし誰かに「疑問をもたずに受け入れる」よう勧められたとしたなら−−−−『クリムゾン・スペル』の主人公みたく−−−−「オレが誰だか、わかってるのか?」と、言ってやったことだろう。

奇妙な事に私は、自分のこのような感性を他人に発見され非難されることを、恐れつつ待ち望むようになってしまった。なぜなら、攻撃を受けることによって初めて、自分の意思を表明する正当な機会が与えられると思ったからだ。そこから考えるに、この時私が最も望んでいたものはコミュニケーションであると言える。さらに、他者からの攻撃を受けなければ自分の意思を表明できないと思っていたというのは、どうしようもなく受け身的な構えである。

私は、自分が被害的に受け止めているこの仕打ち(つまりは人間社会と自然による私への仕打ち)が、必ずしも悪意によって為(な)されたわけではないこと、特定可能な同時代の個人によって為(な)されたわけではないことを、理解していた。というのはつまり、私の感情は怒りであり復讐心であるわけだが、この社会は私の感情の正当性を認めてくれないだろうと私は思ったわけだ。だから、特定の個人からの悪意による攻撃さえ受けることができたら−−−−そうすれば私の怒りや復讐心の正当性を誰もが認めるだろうから−−−−現実の中で心置きなく恨みを晴らすことができるのに、と夢想したわけだ。

最後になったが、当時実際にクラスの女の子同士でセックスについて面白可笑しく話していたときに、誰かが「でも結局女は受け身だからね」と言い、瞬く間にそこにいた全員がシーンとなってしまったことがあった。その言葉は私に死刑宣告のように響いた。

本書の限界について

本書の分析−−−−私がなぜBLに惹かれたのかという理由の分析−−−−は、あくまで私という一個人(女性)が、一回きりの人生の中で、特定のBL作品とめぐり逢って感じたこと・考えたことを基にした分析であり、必ずしも一般のBL愛好家の気持ちを代弁、またはBL文化全体を俯瞰したものではないと思います。今後より多くの愛好家が、自分自身のことについて語ってくれることを私は望みます。

私は、自分がBLを好きであることについて−−−−さらにそれだけでなく−−−−自分のマゾヒスティックな欲求やサディスティックな欲求について、理論的に正当化したという思いがあって本書を書きました。

「別に、取り立てて正当化なんかしなくたって、人に迷惑をかけなければいい」、「ただ楽しめばいいじゃないか」という意見もあることと思いますが−−−−確かに「その通り」とは思いますが−−−−今日の日本の漫画・アニメ文化に対する国際的な関心の高まりを思うとき、そのように楽観的になれない自分があります。

こういった外的な圧力に対処する必要性という動機がまず一つ。

もう一つは私の内的な動機です。それは、私が感性でYesと感じている事柄(例えば、私がBLを好きであること)に対して、私の理性がどう捉えるのかという問題です。心で「これが好きだ」と感じていても、その理由を私の頭が理屈で了解したり人に説明できないとき、私の心は分断の危機に曝されます。まあ、そこまではいかなくても、少なくとも葛藤状態には陥ります。

さらに、心理療法家の私としては、BLに関する自分の感じ方について「これは心理学的には一体どういう意味なのか?」ということを考えないわけにはいかないのです。もしこういった問いに対して、納得のいく答えを出さずに敵前逃亡するとしたら、私は決して自分自身を心の専門家として認めないでしょうし、自分の職業に金輪際自信を持つこともないでしょう。

よって、本書を書くことで、「BLを好きである」ところの私の感性が感じた事柄を、私の理性によっても了解可能な形で語ること、それ自体が私にとっての癒しのプロセスであったのです。

さて、感性については、「BL愛好家の感性」と「そうでない人の感性」、といった区別が可能ですが、理性はその性質からして普遍性がなければおかしいのであって、理性で了解可能になるということは、私以外の人、もしくは私と異なる属性の人−−−−例えばBL愛好家でない女性や男性−−−−にとってもある程度了解可能になるということを意味するはずです。実際本書を友人たちに読んでもらった実感としては、決して全員に理解されたわけではないのですが、また彼ら彼女らの多くは、私と理論的枠組みを共有する人たちだったのですが、少なくとも私がこれまでの人生において獲得した理解者の数よりもはるかに多くの理解者を私は本書を通じて得たということはここに報告しておきます。

世の中には、BL愛好家に限らず、性に関する様々な未消化の思いを抱えた人たちがいるのではないかと私は考えていますが、そういった方たちにとっても本書が何らかの参考になればこれ以上嬉しいことはありません。

また、漫画による性暴力や性行為の描写に反対する人たちにも本書を読んでもらえたらと思います。と言いますのは、暴力的な描写で傷ついた私の心が別の暴力的な描写で癒されるという、自分自身でさえ「これは一体なんだろう?」と思うような現象を本書では扱っているからです。

なお、本書は「性に関する傷つきの癒し」をテーマとしておりますが、現実の性被害の治療について専門的に扱った内容ではありませんので、ご注意ください。

また、現在のところ思春期前の読者には本書をお勧めしません。