男性のホモフォビアと腐女子〜フィクション中の女性は「既に女であることを受け入れた女」?〜

男性の友人の幾人かに、彼らの中にあるホモフォビアとは具体的にはどんなものかを訊いてみたことがある。それらを総合すると−−−−幾分私自身が個人的に受け取った印象も入り込んでいると思うが−−−−「もし自分が、男性に挿入されて気持ち良く感じてしまったら、人間として(あるいは男として)終わってしまうのではないか」というような感覚であると言う。

私は女性であるが、思春期にこれと本当によく似た感覚をもっていた。そして、その「人間として終わってしまう」という恐怖を乗り越えなければ男性と交わることができない自分と比べ、その恐怖を乗り越えなくても女性と交わることのできる男性の立場をとても羨ましく感じていた。

さらに、「挿入される」という受け身の立場について、その逆の能動的な立場よりも「劣っている」という感覚が私の中にあり、自分が挿入する立場の男性ではなく、挿入するかされるかを選ぶことのできるゲイの男性でもなく、性器の交わりのことに限って言えば−−−−男性と交わる場合には−−−−挿入されるしか選びようがない女性であるということが、なかなか受け入れられなかった。

そして、その立場を受け入れるということは、どこか自分の自尊心、競争心、より優れたもの、より良きものでありたいと願う人間としての当然の生き方を放棄・否定することのように思われ、それを放棄した自分がその後も果たして人間として生きていけるのかどうか、不安で仕方がなかった。

これに関して、私は周囲の大人たちに次のようなことを尋ねてみたかったのだと思う。

−−−−挿入されることは、実際に受け身な感じがするものなのか?

−−−−挿入されることについて「劣っている」と感じたことがあるかどうか?

−−−−もしそうだとしたら、それはセックスを経験することで変わったのかどうか?

−−−−もし、自由にどちらか選べるとしたら挿入される方を選ぶかどうか?

などなど…。

そして、このような「挿入されることに抵抗を持つ自分」こそが「真の自分」なのだという意識がどこかにあり、それが男性とのセックスといった外力によって−−−−体だけでなく−−−−心まで作りかえられてしまうかもしれないと思うことは、確固としたアイデンティティなんかとてもじゃないが持っていなかった当時の自分にとってかなり恐ろしいことだった。

当時の私から見て、こういった疑問をもっていないように見える大人の女性は、「話が通じない」または「人間ではない自分とは異質な生き物」であるように感じられたし、小説や漫画などの男女の恋愛やセックスの描写に登場する女性ときたら−−−−まったくもう−−−−どいつもこいつも「既に女であることを受け入れている女」にしか見えず、女であることを受け入れていない今の自分を重ね、感情移入することができる人物がそこにはいないのだった。すると必然的に、まだ完全には大人になりきれていない同年代の若い男性が、もっとも自然に自分を重ね感情移入することができる対象となるのだった。

これはまさにBLの主人公そのものではないか。

BLは、こういうメンタリティーのまま何の抵抗もなくスッと入っていくことができて、出てくるときには、絶対に越えられないと思っていた一線を仮想現実の中であっさりと−−−−しかも気持ち良く−−−−越えさせてくれるツールなのだ。

BLの主人公は、少なくとも私が思っている「女」のようには、挿入されることをすんなりと受け入れたりはしない。そういう状況になると、「女」であれば絶対にしないような抵抗を示したり、「女」であれば絶対に言わないようなことを言ってくれる。そこがドンピシャに感情移入できるポイントなのだ。そして不思議なことに、挿入されることへの抵抗感を、主人公に感情移入して充分に表現した後では、当初の抵抗感は軽減しているものである。

その後は、作品によってかなり異なると思うのだが「受け身も案外いいものだな」とか「実際自分はこの方が好きだ」と思うかもしれないし、受け身ではない形での挿入される体験が得られる場合もあるだろう。それから受け身の中には「甘えられる体験」といったものもあるということに気がつくかもしれない。そして、「挿入されることは受け身なのか?」という当初の疑問については、「YesでありNo」そしてそれは「悪くないもの」であり、ときには「物凄く良いもの」と感じるようになるのだ。

コメントを残す