本書の限界について

本書の分析−−−−私がなぜBLに惹かれたのかという理由の分析−−−−は、あくまで私という一個人(女性)が、一回きりの人生の中で、特定のBL作品とめぐり逢って感じたこと・考えたことを基にした分析であり、必ずしも一般のBL愛好家の気持ちを代弁、またはBL文化全体を俯瞰したものではないと思います。今後より多くの愛好家が、自分自身のことについて語ってくれることを私は望みます。

私は、自分がBLを好きであることについて−−−−さらにそれだけでなく−−−−自分のマゾヒスティックな欲求やサディスティックな欲求について、理論的に正当化したという思いがあって本書を書きました。

「別に、取り立てて正当化なんかしなくたって、人に迷惑をかけなければいい」、「ただ楽しめばいいじゃないか」という意見もあることと思いますが−−−−確かに「その通り」とは思いますが−−−−今日の日本の漫画・アニメ文化に対する国際的な関心の高まりを思うとき、そのように楽観的になれない自分があります。

こういった外的な圧力に対処する必要性という動機がまず一つ。

もう一つは私の内的な動機です。それは、私が感性でYesと感じている事柄(例えば、私がBLを好きであること)に対して、私の理性がどう捉えるのかという問題です。心で「これが好きだ」と感じていても、その理由を私の頭が理屈で了解したり人に説明できないとき、私の心は分断の危機に曝されます。まあ、そこまではいかなくても、少なくとも葛藤状態には陥ります。

さらに、心理療法家の私としては、BLに関する自分の感じ方について「これは心理学的には一体どういう意味なのか?」ということを考えないわけにはいかないのです。もしこういった問いに対して、納得のいく答えを出さずに敵前逃亡するとしたら、私は決して自分自身を心の専門家として認めないでしょうし、自分の職業に金輪際自信を持つこともないでしょう。

よって、本書を書くことで、「BLを好きである」ところの私の感性が感じた事柄を、私の理性によっても了解可能な形で語ること、それ自体が私にとっての癒しのプロセスであったのです。

さて、感性については、「BL愛好家の感性」と「そうでない人の感性」、といった区別が可能ですが、理性はその性質からして普遍性がなければおかしいのであって、理性で了解可能になるということは、私以外の人、もしくは私と異なる属性の人−−−−例えばBL愛好家でない女性や男性−−−−にとってもある程度了解可能になるということを意味するはずです。実際本書を友人たちに読んでもらった実感としては、決して全員に理解されたわけではないのですが、また彼ら彼女らの多くは、私と理論的枠組みを共有する人たちだったのですが、少なくとも私がこれまでの人生において獲得した理解者の数よりもはるかに多くの理解者を私は本書を通じて得たということはここに報告しておきます。

世の中には、BL愛好家に限らず、性に関する様々な未消化の思いを抱えた人たちがいるのではないかと私は考えていますが、そういった方たちにとっても本書が何らかの参考になればこれ以上嬉しいことはありません。

また、漫画による性暴力や性行為の描写に反対する人たちにも本書を読んでもらえたらと思います。と言いますのは、暴力的な描写で傷ついた私の心が別の暴力的な描写で癒されるという、自分自身でさえ「これは一体なんだろう?」と思うような現象を本書では扱っているからです。

なお、本書は「性に関する傷つきの癒し」をテーマとしておりますが、現実の性被害の治療について専門的に扱った内容ではありませんので、ご注意ください。

また、現在のところ思春期前の読者には本書をお勧めしません。

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