エピソード2

次に中学生の頃の私の転機について述べよう。その頃私達は、学校教育やら、親からや、書物から、また同年代の友人達から、セックスについての情報を仕入れる年齢だった。

最初は恐らく、事実を表面的に受け止めていて、男女のセックスの肉体的な仕組みを知ったからと言って、自分の人生プランにさしたる変更を加えるほどのことではないと思っていた。

しかしそのうちに、次のような疑念が私の頭の中で渦を巻き始めた。それは「女性の肉体が、セックスに関して受け身にできているのではないか?」という疑問だった。端的に言えば「挿入される」=「受け身」なのか?という疑問だ。

さらに私は、その年になるまで、自分が女性だからという理由で何かできないことがあるなどとは思ったことがなかったので、自分が挿入することができないという事実に、単純にショックを受けた。そもそも当時の私は、「挿入したい」という明確な衝動をもっていたわけではないと思うのだが、それでもショックであることに違いはなかった。

読者は、私が「その年までできないことがあるとは思っていなかった」ということに対して驚かれるかもしれないが、私としても育つ過程の中で、女性だからという理由で制限される感じを全く持たなかったというわけではない。しかし、「女性らしくするように」という外圧に自分を合わせることは、自分がこの世界を生きやすくするための選択だという意識があったのではないか。しかるに、「挿入することができない」ということに関しては、もちろん自分が選択したこととは思えなかったのだ。

話を戻すが、この時恐らく私の頭の中には、「挿入される」=「受け身」=「劣っている」という単純な二項対立的な図式があり、そのような価値判断によっても私は傷ついたのだと思う。こういった図式が、その名も「男根中心主義」と呼ばれるものであることは、後から知った。つまり、私がこのような感じ方をしたことには、文化的社会的な妥当性があるということだ。

また、このような感じ方を、当時の私の個人的な人格発達上の未熟性に帰すこともできる。思春期・青年期という、アイデンティティを確立していこうとするまさにその途上にあって、世界と能動的に関わる経験を積むことの大切さは計り知れないものがある。

今の私であれば、「挿入される」ということにある種の「受け身」性があるからと言って、性的な人間関係や人生自体に対して受け身である必要は全くない、と当然のごとくに思えるのだが、当時はそのように割り切ることが難しかったし、「挿入されるという受け身を能動的に行う」具体的で魅力的なモデル像というものが私の周囲には不足していたのだろう。

さらに私にとって決定的に悪かったのは、周囲の大人達が、私がよもやこういった事柄に傷ついたりショックを受けたりする可能性があるなどとは想定していないように見えたことである。

たとえ大人達が想定していなくとも、私自身に自分の傷つきを声高に言ってのける強さがあり、それを受け止めてくれる社会であったなら、私の傷つきはもっと軽くて済んだことだろう。さらに、世界と自分自身をもっと肯定することができていただろう。

そうだったらよかったと心底思うのだが、当時の私は残念ながらそのような力を持ち合わせていなかった。また、「異性として男性に求められたい」という願望も私は持っていたため、このような女性として「普通ではない」−−−−というふうに考える必要もないと今では思うのだが−−−−ように思える感情を口にしても何も得することはないかと思ったのかもしれなかった。

こんな風にして、実際には世間的な圧力と戦ってみることも何もしないうちからその圧力に屈し、自分にとってはごく自然な感じ方を−−−−同年代の女性達の間でほんの少し口にする以外では−−−−はっきり言葉にする機会もなく、自分で自分を黙らせてしまった私は、この傷つきから回復するために人の助けを借りることができなかったばかりか、同じように傷ついている人が果たしてこの世にいるのかどうかということをはっきりと確かめることもできなかったのだった。そして「こんな感じ方はこの世で自分ただ一人かもしれない」という考えは、私に大変な恐怖と孤独の感覚をもたらした。

繰り返しになるが、もしこのとき私が、自分の傷つきを言葉にして誰かに伝えることができていたならば、私は「受け身」であることの傷つきに対して「主体的に対処することができた」という自己効力感を持つことができたのではないかと思う。しかし、「受け身」であることの傷つきに対して、他力本願的に、まさしく「受け身」的にしか対処できなかったことがこのときの私の問題であった。

上記が、挿入されることの「受け身」性についての私の傷つきだが、女性が初めてセックスをするときの肉体的な痛みについて知るようになると、そのことによっても私は傷つき、かつその時の痛みに対して大きな恐れ抱くようになった。そして、痛みへの恐れが「ますます私を受け身的にするから」という理由で、そのような痛みを生み出す人間の肉体を憎んだ。

このように、男女のセックスの肉体的な仕組みを知るということがきっかけで生じた傷つきによって、私のそれまでの人生観は根底から覆された。

その傷つきは−−−−誤解を恐れず言うなら−−−−私という存在が「世界や神(私は特定の信仰をもっていたわけではなかった)から愛されていない」という、宗教的な破局の感覚をもたらした。そして、私をこのような苦悩に陥れた人間世界、さらにはこのような生殖の仕組みを造り出したと考えられる自然に対してまでも、怒りと憎しみと復讐心を私は抱いた。幸いにして私はそのような行動には至らなかったが、こういう行き場を失った感情が、場合によっては無差別殺人などの凶行に人を駆り立てたとしても私は全く不思議に思わない。

上記の通り、思春期の私は自分の感じたことを公にすることができなかったわけだが、内面の空想世界に限って言えば、こういった感性を大事にすることを少しも諦めたわけではなかった。「女性は挿入されるものなのだ」と何の疑問ももたずに受け入れているように見える女や男の大人たちは、私の目にはどうしようもなく鈍感な人間に映った。

まあ確かに、私がどんな意志を持ったところで、人間のセックスの生物学的な仕組みが根本的に変わるわけはないだろう。かと言って、全く変わらないと思うのも極端な考えである。

自分の感じたことを外に向かって言わないのは、若くて権力がないから仕方がないにしても、もし自分の内側においても何もなかったことにしてしまったとしたら、一体その後の私はどうなっていただろうか?

「我思う、ゆえに我あり」−−−−そう、あの時の私にとっては、このような人に言えない自分の感性を自分の内側だけでも保持し続けることが、そのまま自分の存在を賭けた行為であったのだ。

さらに、「疑問を持つ」ということは「自由な精神をもった人間」の特権であり、何も疑問を持たずに受け入れるということについては、「動物の所業」といった具合に捉えていたのだった。

あの時もし誰かに「疑問をもたずに受け入れる」よう勧められたとしたなら−−−−『クリムゾン・スペル』の主人公みたく−−−−「オレが誰だか、わかってるのか?」と、言ってやったことだろう。

奇妙な事に私は、自分のこのような感性を他人に発見され非難されることを、恐れつつ待ち望むようになってしまった。なぜなら、攻撃を受けることによって初めて、自分の意思を表明する正当な機会が与えられると思ったからだ。そこから考えるに、この時私が最も望んでいたものはコミュニケーションであると言える。さらに、他者からの攻撃を受けなければ自分の意思を表明できないと思っていたというのは、どうしようもなく受け身的な構えである。

私は、自分が被害的に受け止めているこの仕打ち(つまりは人間社会と自然による私への仕打ち)が、必ずしも悪意によって為(な)されたわけではないこと、特定可能な同時代の個人によって為(な)されたわけではないことを、理解していた。というのはつまり、私の感情は怒りであり復讐心であるわけだが、この社会は私の感情の正当性を認めてくれないだろうと私は思ったわけだ。だから、特定の個人からの悪意による攻撃さえ受けることができたら−−−−そうすれば私の怒りや復讐心の正当性を誰もが認めるだろうから−−−−現実の中で心置きなく恨みを晴らすことができるのに、と夢想したわけだ。

最後になったが、当時実際にクラスの女の子同士でセックスについて面白可笑しく話していたときに、誰かが「でも結局女は受け身だからね」と言い、瞬く間にそこにいた全員がシーンとなってしまったことがあった。その言葉は私に死刑宣告のように響いた。

本書の限界について

本書の分析−−−−私がなぜBLに惹かれたのかという理由の分析−−−−は、あくまで私という一個人(女性)が、一回きりの人生の中で、特定のBL作品とめぐり逢って感じたこと・考えたことを基にした分析であり、必ずしも一般のBL愛好家の気持ちを代弁、またはBL文化全体を俯瞰したものではないと思います。今後より多くの愛好家が、自分自身のことについて語ってくれることを私は望みます。

私は、自分がBLを好きであることについて−−−−さらにそれだけでなく−−−−自分のマゾヒスティックな欲求やサディスティックな欲求について、理論的に正当化したという思いがあって本書を書きました。

「別に、取り立てて正当化なんかしなくたって、人に迷惑をかけなければいい」、「ただ楽しめばいいじゃないか」という意見もあることと思いますが−−−−確かに「その通り」とは思いますが−−−−今日の日本の漫画・アニメ文化に対する国際的な関心の高まりを思うとき、そのように楽観的になれない自分があります。

こういった外的な圧力に対処する必要性という動機がまず一つ。

もう一つは私の内的な動機です。それは、私が感性でYesと感じている事柄(例えば、私がBLを好きであること)に対して、私の理性がどう捉えるのかという問題です。心で「これが好きだ」と感じていても、その理由を私の頭が理屈で了解したり人に説明できないとき、私の心は分断の危機に曝されます。まあ、そこまではいかなくても、少なくとも葛藤状態には陥ります。

さらに、心理療法家の私としては、BLに関する自分の感じ方について「これは心理学的には一体どういう意味なのか?」ということを考えないわけにはいかないのです。もしこういった問いに対して、納得のいく答えを出さずに敵前逃亡するとしたら、私は決して自分自身を心の専門家として認めないでしょうし、自分の職業に金輪際自信を持つこともないでしょう。

よって、本書を書くことで、「BLを好きである」ところの私の感性が感じた事柄を、私の理性によっても了解可能な形で語ること、それ自体が私にとっての癒しのプロセスであったのです。

さて、感性については、「BL愛好家の感性」と「そうでない人の感性」、といった区別が可能ですが、理性はその性質からして普遍性がなければおかしいのであって、理性で了解可能になるということは、私以外の人、もしくは私と異なる属性の人−−−−例えばBL愛好家でない女性や男性−−−−にとってもある程度了解可能になるということを意味するはずです。実際本書を友人たちに読んでもらった実感としては、決して全員に理解されたわけではないのですが、また彼ら彼女らの多くは、私と理論的枠組みを共有する人たちだったのですが、少なくとも私がこれまでの人生において獲得した理解者の数よりもはるかに多くの理解者を私は本書を通じて得たということはここに報告しておきます。

世の中には、BL愛好家に限らず、性に関する様々な未消化の思いを抱えた人たちがいるのではないかと私は考えていますが、そういった方たちにとっても本書が何らかの参考になればこれ以上嬉しいことはありません。

また、漫画による性暴力や性行為の描写に反対する人たちにも本書を読んでもらえたらと思います。と言いますのは、暴力的な描写で傷ついた私の心が別の暴力的な描写で癒されるという、自分自身でさえ「これは一体なんだろう?」と思うような現象を本書では扱っているからです。

なお、本書は「性に関する傷つきの癒し」をテーマとしておりますが、現実の性被害の治療について専門的に扱った内容ではありませんので、ご注意ください。

また、現在のところ思春期前の読者には本書をお勧めしません。

フェミニストはマゾヒズムがお嫌い?

微風が仄かな花の香を運んでくる春の夕べ−−−−。

あなたは親しい友人らと共にディナーのテーブルにつき、今まさに好物の料理を口に運ぼうとしている…。するとそこへ突如一陣の風と共に覆面の人物が現れ、あなたの耳元で次のように囁く。

「あなたは覚えていないかもしれませんがあなたがその食べ物を好んでいるのは、幼少期のトラウマの影響です」

「それを食べ続けていては幸せになれません」

「あなたはその趣味を捨て去るべきです」

言い終わるが早いかその人物は訪れた時と同じようにあっという間に視界から消えてしまった。

友人たちが何事もなかったかのように食事を続ける中で、あなたは考え込んでしまう。

❇︎     ❇︎     ❇︎

思春期以降、女性の性的なマゾヒズムに対するフェミニズムの見解に接したときに私が感じた困惑は、ちょうど上記のようなものだったと言ったら、少しは当時の私の心境を分かってもらえるだろうか?

私は、小さい子供の時分から性的なマゾヒズムを持っていた−−−−と自分では思っている。具体的には、縛られたり、自由を奪われたりすることを想像しては性的に興奮する傾向があった。

しかるにフェミニズムは、女性のこのような欲望−−−−特に男性の欲望の対象となることに興奮するような性質の欲望−−−−またはそうでなくとも女性の性にまつわる欲望全般をどうやら「男社会から押し付けられたもの」と見なしているようだ、と私は折に触れて感じるようになった。少なくとも、フェミニズムが私の性欲を応援してくれているように感じたことは、その当時皆無であった。

フェミニズムは、男性の女性に対する暴力を糾弾するとともに−−−−私としてもそれ自体に全く異論はないのだが、というか性別がどうあれ暴力には反対だが−−−−私のようなタイプの欲望の持ち主についても「男社会」に迎合するものとして糾弾しているように私には感じられた。

それにしても、自分の欲望を「男社会に押し付けられたもの」と見なす、などという考えは、私にとって不名誉極まりないことだった。

もし私の性欲が自然的なものではなく、人工的に「他者から押し付けられたもの」だとしたならば、私が自分自身の性欲を大事にすることは、私がどんどん他人の言いなりになって主体性をなくし、不幸になることにつながるのではないだろうか?そして私の性欲は恥ずかしい異常なものであり、治療しなければならないものということになりはしないか?もしフェミニストの言うことが本当なら、私は自分と性欲の形がぴったり合うパートナーを見つけることは一生無理なのではないか、なぜなら、そいつらは全員犯罪者に違いないだろうから、とさえ私は考えた。

今では笑って、なおかつ自信をもって「そんなバカなことはない」と言い切ることができるのだが、当時の私にとってこれは全く笑えない冗談だった。

私はフェミニズムが歴史上果たしてきた役割、今も果たしつつある役割を評価しているつもりだ。しかし当時の私は、それによってなおさら深刻な倫理的ジレンマに陥ったのだった。

しかも、フェミニストが言うように、ためしに自分の性欲を「押し付けられたもの」と見なしてみたところで、私自身はちっとも気分がよくならないし、欲求不満に陥るだけでなく、マゾヒスティックな欲望を自分が捨て去ることは不可能だということを痛感する結果になる、という有様だった。

私は、「暴力に反対である」という私の立場と、自分のマゾヒスティックな性的ファンタジーの両方を説明することのできる、より高次の理論で武装することなしには、もはや安心して1秒も生きていくことができないという結論に達した。

私はこういった疑問に取り憑かれて過ごした時間を無駄だったとは考えていない。なぜならこれを考え抜いたことによって私は−−−−政治家がSMについて「穢らわしい」と発言しようとも−−−−もし自分にぴったりのパートナーが見つからなくとも−−−−大手を振って通りを歩くことのできる心境になれたし、積極的に自分に合うパートナーを見つけようという気持ちになることができたからだ。

そしてBLは、このような悩みに関しても、私と同じような形の欲望を持っている女性は、決して世界に自分一人ではないし、そのような欲望を持つことと、現実の暴力に反対することとは問題なく両立しうるということを確信させてくれたのだった。

ごく最近になって私は、自分と同世代のアメリカのフェミニストが、旧い世代のフェミニズムを「女性が自らのセクシュアリティを楽しむことに罪悪感を抱かせた」として非難したということを知った。

この問題に関する現在の私の見解はこうである。もしある人が、自分の性欲の形を「押し付けられたもの」であると感じ、それを拒否したり排除することでより幸せになれるのだったら、排除することはその人にとって正しいことなのだ。しかし、それと全く同様に、ある人が自分の性欲の形に満足していて、そのことで自分も他人も不幸にすることがないのだったら、それは決して非難されるべきではない。その人にとっては、その欲望の形を大事にすることが正しいことなのだ。

ああ−−−−これで私はやっと安心して食事をとることができる。

男性のホモフォビアと腐女子〜フィクション中の女性は「既に女であることを受け入れた女」?〜

男性の友人の幾人かに、彼らの中にあるホモフォビアとは具体的にはどんなものかを訊いてみたことがある。それらを総合すると−−−−幾分私自身が個人的に受け取った印象も入り込んでいると思うが−−−−「もし自分が、男性に挿入されて気持ち良く感じてしまったら、人間として(あるいは男として)終わってしまうのではないか」というような感覚であると言う。

私は女性であるが、思春期にこれと本当によく似た感覚をもっていた。そして、その「人間として終わってしまう」という恐怖を乗り越えなければ男性と交わることができない自分と比べ、その恐怖を乗り越えなくても女性と交わることのできる男性の立場をとても羨ましく感じていた。

さらに、「挿入される」という受け身の立場について、その逆の能動的な立場よりも「劣っている」という感覚が私の中にあり、自分が挿入する立場の男性ではなく、挿入するかされるかを選ぶことのできるゲイの男性でもなく、性器の交わりのことに限って言えば−−−−男性と交わる場合には−−−−挿入されるしか選びようがない女性であるということが、なかなか受け入れられなかった。

そして、その立場を受け入れるということは、どこか自分の自尊心、競争心、より優れたもの、より良きものでありたいと願う人間としての当然の生き方を放棄・否定することのように思われ、それを放棄した自分がその後も果たして人間として生きていけるのかどうか、不安で仕方がなかった。

これに関して、私は周囲の大人たちに次のようなことを尋ねてみたかったのだと思う。

−−−−挿入されることは、実際に受け身な感じがするものなのか?

−−−−挿入されることについて「劣っている」と感じたことがあるかどうか?

−−−−もしそうだとしたら、それはセックスを経験することで変わったのかどうか?

−−−−もし、自由にどちらか選べるとしたら挿入される方を選ぶかどうか?

などなど…。

そして、このような「挿入されることに抵抗を持つ自分」こそが「真の自分」なのだという意識がどこかにあり、それが男性とのセックスといった外力によって−−−−体だけでなく−−−−心まで作りかえられてしまうかもしれないと思うことは、確固としたアイデンティティなんかとてもじゃないが持っていなかった当時の自分にとってかなり恐ろしいことだった。

当時の私から見て、こういった疑問をもっていないように見える大人の女性は、「話が通じない」または「人間ではない自分とは異質な生き物」であるように感じられたし、小説や漫画などの男女の恋愛やセックスの描写に登場する女性ときたら−−−−まったくもう−−−−どいつもこいつも「既に女であることを受け入れている女」にしか見えず、女であることを受け入れていない今の自分を重ね、感情移入することができる人物がそこにはいないのだった。すると必然的に、まだ完全には大人になりきれていない同年代の若い男性が、もっとも自然に自分を重ね感情移入することができる対象となるのだった。

これはまさにBLの主人公そのものではないか。

BLは、こういうメンタリティーのまま何の抵抗もなくスッと入っていくことができて、出てくるときには、絶対に越えられないと思っていた一線を仮想現実の中であっさりと−−−−しかも気持ち良く−−−−越えさせてくれるツールなのだ。

BLの主人公は、少なくとも私が思っている「女」のようには、挿入されることをすんなりと受け入れたりはしない。そういう状況になると、「女」であれば絶対にしないような抵抗を示したり、「女」であれば絶対に言わないようなことを言ってくれる。そこがドンピシャに感情移入できるポイントなのだ。そして不思議なことに、挿入されることへの抵抗感を、主人公に感情移入して充分に表現した後では、当初の抵抗感は軽減しているものである。

その後は、作品によってかなり異なると思うのだが「受け身も案外いいものだな」とか「実際自分はこの方が好きだ」と思うかもしれないし、受け身ではない形での挿入される体験が得られる場合もあるだろう。それから受け身の中には「甘えられる体験」といったものもあるということに気がつくかもしれない。そして、「挿入されることは受け身なのか?」という当初の疑問については、「YesでありNo」そしてそれは「悪くないもの」であり、ときには「物凄く良いもの」と感じるようになるのだ。

タブーを見直す

性に関するコミュニケーションには様々なタブーがあるけれど、それは私たちを守ってくれているものでもある。

もちろん人を傷つけないための繊細さや思いやりは大切。

だけど中には「ただ何となくそういう習慣になっているから」というだけの決まりごとや、「思い込み」みたいなものもあるように思う。

社会の中のそういう目に見えない枠組み?みたいなものに揺さぶりをかけることができたら、私は幸せ。

揺さぶりをかけられたそれは、やがて色んな人の力が加わって、みんなが居心地の良い方向に組み換わっていくのではないかな、と私はかなり楽観的に思っているのです。

体に合わなくなった服を取り替えるように、蝶が蛹を脱ぎ捨てるように、私たちは変わっていくことができるのではないかな。

まえがき3 本書を書くために用いた方法論について〜BL依存症につける薬〜

何を隠そうこの私は「BL依存症だった」と思っている。

BLを読むこと自体は私にとって喜びであり楽しみであったので、そのことで困っているという意識はほとんどなかった。ただ、その趣味をよく思わない人が世の中にいることや、趣味を同じくしていない人に私の趣味を説明してもあまりよくわかってもらえないということでは多少困っていたかもしれない。

さらに、私には次のような「末期的」な症状も見受けられた。即ち、ヒマさえあればBLのことを四六時中考えてしまうとか、ふと気づくとBL作品中のセリフを口ずさんでいるとか、一人になったら間髪を入れずに作品を鑑賞しないと気が済まない−−−−などのことである。

話は変わるが、私はカウンセリングや心理療法など対人援助の目的と、自分自身の心の健康のために、プロセスワークという心理療法を学んできた。その手法は、身体症状や夢といった現象の背景にある、本人がまだはっきりとは自覚していないプロセスへの自覚を深め、それを自我に統合するための手法だった。しかしなぜか数年前まで、その手法を自分に起きている「BL好き」という現象に応用してみようと思うことはなかった。

最初のきっかけが何だったかはともかく、とにかくあるとき私は自分の「BL好き」に対して、プロセスワークでアプローチしてみようと思ったのだ。BLは私にとって、「言葉ではうまく説明できないけれども」、「なぜだか理屈で分からないにも関わらず」、「自然に」惹きつけられてしまう何かだった。まずここから次のようなことが分かる。私のBL好きには「通常の意識とは異なる意識状態」が関与しているということである。「通常の意識とは異なる意識」のことを「変性意識」という。つまり、私がBLに惹かれるのは「変性意識状態」の仕業というわけだ。「自分がBLに惹かれる理由」について、もし私の意識が完全に把握できているならば、私は自分の「BL好き」についてこんな風には感じないはずなのである。即ち「私は○○という理由でBLを愛好している」ということが単純明快に言えるはずなのだ。そして、もし私が自分の「BL好き」について完全に把握できているならば、その理由は、相手がBL愛好家でなくとも、理屈として了解可能なものになるはずである。BL愛好家でない人が私の言うことを理解できないならば、私はまだ自分のことを十分に把握できていないのだ。

というわけで、私の「BL好き」の謎を解明するためには、通常の意識とは異なる意識状態「変性意識状態」を扱うことに長けたプロセスワークが役に立つかもしれない、という可能性を私は感じたのだ。

さて、私がプロセスワークのどういう方法論を用いて自分の「BL好き」を解明したのかを書く前に、私の場合、それを解明することによって、どういうメリットとデメリットがあったかをお伝えしたいと思う。

メリットの1番は、自分自身についてよく知ることができたということに尽きる。「自分をよく知っている」と感じられることは、人に自信を与えるものである。このため以前よりも自分に自信がもてるようになった。また、「BL愛好家でよかった」と心から思えたということもある。それはBLが私をいかに支え癒してきたのかを詳細に知ることができたからである。そして、自分自身について深く知ったことから、BL愛好家でない人とも分かり合える度合いが深まった。

これ以降のメリットは、メリットの1番から自然に派生したことである。

メリットの2番は、私のBL趣味や性的な嗜好を理解してくれたり、共に楽しむことができるパートナーを見つけようという希望をもつことができ、実際に見つけることができたことである。

メリットの3番は、性的なことに関して自分の感じていることを表現する自由度が格段に広がったことである。

メリットの4番としては、以前よりBLに「依存している」という感じがしなくなったこと。だからといって、BLを好きでなくなったりすることはない。

最後になったが、この解明の過程には次のようなデメリットがあったことを付け加えておきたい。デメリットとは、解明の過程には痛みが伴うことである。BLをただ楽しく消費していた時の私は、自分の性的なことに関連した痛みや傷つきにほとんど気づかず、あるいは意識の片隅では痛みがあることを知っていたとしても、敢えてそれを感じないようにして、痛みを帳消しにしてくれる「心地よい刺激」、「快楽」だけを求めていた。しかし、少し立ち止まって考えてみればすぐに分かることだが、どこかに「不快」があるからこそ「快」を求め続ける必要があるのであり、「不快」を元から絶たない限りBLを消費し続けなければならないという問題点があったのだ。

さて、長らくお待たせしたが、私が自分の「BL好き」を解明するために用いた方法論をここで整理しておく。

①まず、自分が好きな作品の中で、特に「好きだ」と感じられる箇所に着目する。このときできれば、「好きだ」と感じられる箇所の中で、「BL特有の表現」と思うものを選ぶ。

②その箇所を「好きだ」と私が感じるのは、その箇所を読むことで私が心地よい変性意識状態に入ることができるから、と考える。そして、その心地よい変性意識状態に留まり、それを十分に味わうようにする。その心地良さがどういう心地良さなのか調べ、それを言葉にする。

③次に、その「普段と異なる変性意識状態」から、普段の自分、これまでの自分の意識状態を振り返ってみる。するとどうだろう。−−−−あら不思議、自分でも「私ってそんなこと思っていたのかしら?」と驚くような隠された傷つきや願望が出てくるはずなのだ。

この①〜③の手順を具体例を挙げて説明してみる。

例えば私がBL漫画で「受け」が「攻め」に対して「オレを侮るな」と主張するシーンを「好きだ」と感じたとする。補足すると、こういったセリフは大抵、受けが攻めに「女扱い」されたと感じるときに出てくるものだと思う。

次にこのシーンで私が感じた心地良さをよく味わってみると、私は「オレを侮るな」という自己主張をする受けに感情移入して、自己主張することの心地良さを感じているということが分かる。

次に、この心地よい状態から普段の自分の意識状態を振り返ってみる。そこから分かることは、「自分を侮るな」というような自己主張を私は人に対して、特に男性に対してしたい気持ちがあるのだろう、しかし、同時にそのような自己主張を行うことに私は困難を感じているのだろう、ということである。さらに、「攻め」ではなく、「受け」が「侮るな」と主張するところに私の快楽があるのだとすると、「女扱い」されること、または「挿入されるポジションにある」ということに対して、自分はどこか劣等感を持っているのかもしれない、といったことも考えることができる。

また別の例を挙げる。あなたが、「攻め」が「受け」に対して優しく接するシーンがとても「好きだ」と感じていたとする。そのシーンで味わう心地よさをあなたがよく味わってみると、それが「優しくされる心地よさ」であることがわかる。その心地よい意識状態のところから普段のあなたの意識状態を振り返ってみて分かることは、普段のあなたが、パートナーの男性が自分に対して、または世の中の男性が女性に対して十分に優しくない、と感じていること、またはあなたが「もっと優しくしてほしい」と男性に伝えることに何らかの困難を抱えているのだろう、ということである。

基本的にこの①〜③の手順の繰り返しにより、私は「どうして自分がBLを好きなのか」、「BLで癒されるのか」についての理解を深め、この本にまとめたのだ。

さて、「なぜBLが好きなのか」を解明するという目的からは多少逸脱するように思われるかもしれないが、この後に手順④として、③で得た気づきを元に、自分の隠された願望の方向性に沿って、または自分の傷つきを癒していけそうな方向性に沿って、実生活、特に人間関係のあり方を改革することができれば、より充実した幸せな生活が送れるようになることは間違いない。手順③で、自分の願望や傷つきを自覚するだけでも、BLに依存している感じが減少することがあると思うが、手順④まで進み、現実の人間関係を通して満たされる度合いが増えることでさらに減少する。こうして③で得た気づきには確かに意味があったということが、実生活における幸せを通じて証明されることになるのだ。

なお、ここまで見てくると、BL愛好家はそうでない人に比べて、性に関するコミュニケーションに困難を抱えている人という印象を与えるかもしれないが、私はそうは思っていない。なぜなら、私の書いたものや私とのコミュニケーションを通じて、BL愛好家ではない私の女友達の多くが、性に関する自身の感情を自覚し、それについて話せるようになり癒されるという体験をしたからだ。つまり、私がBLを通じて気がつくことができた感情の多くは−−−−もちろん個人差があるが−−−−多くの女性にとって意味のあることだったのだ。

座談会レポート

昨年12月、私のエッセイを読み興味をもってくれている女性の友人たちを集め、座談会を行った。会のサブタイトルは〜ボーイズ・ラブを通して語る「自由とは?」〜

ちなみに、私のエッセイや座談会に興味を持ってくれる女性の方の、約半分ぐらいは、人生で一度もBL愛好家だったことはなく、今後もそうなることはないだろうという人たちである。残りの半分は思春期から青年期にかけて、通過儀礼のようにBLないし「やおい」のお世話になったという方。そして私のエッセイがきっかけで大人になってからBLに目覚めた人も。

いずれにしても、エッセイをきっかけとして、自分の中で自覚することにさえストップをかけていた様々な感情に気づき、それを、場合によっては「生まれて初めて」人と分かち合うということに、ワクワク感をもっている人−−−−。自分も含めそういう人が一番多かったかもしれない。

というわけで、私たちを結びつけているのは必ずしもBLではなく、一番は「性に関することを楽しく安心して話せる場があったらいい」というニーズなのだ。そもそもBLは、女性が持っているこうした潜在的なニーズに対する一つの「解決」として生み出されたという側面があると私は思っているのだが、この会ではそのニーズをもっと直接的に−−−−つまりは必ずしもBLを媒介とせずに−−−−満たしてみよう!ということを企てたのだ。

12月の座談会では、それぞれの参加者が「BLの、エッセイの、または座談会の何に惹かれて、あるいは何が気になって座談会に参加したのか」について、二人一組でよく話し合って明確にしてもらった。次に、「その人が惹かれている/気になっている何かは、普段その人が無意識に抑圧していたり、表現することを躊躇ったりあきらめたりしていた感情や欲求を解放し、自由にしてくれる糸口ではないか」と私は考えているので、「自分が惹きつけられている/気になっている方向性に沿って、普段の自分がもっている抑圧や抵抗、あきらめから100%自由な存在」についてイメージを膨らませてもらった。

以下は座談会に参加してくれたカウンセラーのTakoさんが、ワークについてシェアしてくれた内容である。

結局わたしが気になっていたのは、

セックスも含むコミュニケーションのことだと思う。

Takoさんはエクササイズの時、かつてのパートナーと、セックスについて言葉を通してのコミュニケーションができなかったことが頭に浮かんでいたと言う。さらに彼女は、かつて女性同士でも「セックスについてのコミュニケーション」を持つことができずにいたとのこと。最近になって、私や、私の友人たちとそのことについてコミュニケーションができるようになり、そこで味わった楽しさや解放感が忘れられず、座談会に参加することになったのだという。

そのことについてワークして、わたしが求めるものを体現する自由な存在を思い浮かべた時に出てきたものは、

裸で、でん!と立つ女性だった。

で、その女性の性器のあたりに、黒々とした闇のような穴が存在していた。

それは黒い深遠のようで何も見えない未知の世界だった。

それは何かを引きずりこむ黒い穴でもあり、

何かを生み出す大いなる黒い穴でもあるようだった。

しかしそれは黒々と何も見えず、

そこに何があるか、人々も、それを持っている女性自身にも未知のものだった。

その未知のものを、自分自身でさえ恥ずかしく思ってしまうというのがこれまでのわたしに起こっていたこと。

しかしその女性は堂々と立ち、その深遠の闇である穴をさらしていた。

この日、私を含め他の参加者がワークして辿り着いた人物像も、どこかしらこれと似たものが多かったように思う。

この穴・闇は、女性器そのものかもしれないし−−−−実際その中を見ることはできないからね−−−−「女性性」みたいなものかもしれないし、女性が「男性には関係ないことだから言ってもしょうがない」と思って言葉にすることを怠ってきた色んな経験のことかもしれない。

自分のもつ闇、未知の部分を恥じ、隠すのではなく、そこに「それ」があることを認め、むしろ「これって不思議だね」と愛で慈しみ、堂々と自分にも他人にもその存在を誇示し、それと共にあること−−−−。

ああ、そのようなもので私はありたい!

というわけで、私も含め主催者側も参加者の熱に大いに触発される会となった。

これを敢えてBL風に言うなら「胸張ってこうぜ!バディ」ってとこか?

本論考「女性による〜」はいかにして生まれたか

−−−−あれはもう今から3年も前のことになるだろうか。

もとより、心からBLを愛していたとは言え、私は当初BLを−−−−素晴らしくうまく−−−−「性欲を処理してくれるもの(肉体的かつ情緒的に)」、ぐらいにしか考えていなかった。

私は、その頃自分が教育分析を受けていた心理カウンセラーの、都会の真ん中にあるセラピー用のオフィスで、ぼそぼそした手触りの、柔らかすぎるくたびれた布張りのソファに、ほとんど埋もれるようにして座っていた。私が喉から絞り出すようにその言葉を発すると、セラピストは眉間にしわを寄せ、怪訝(けげん)そうに顔を上げた。

「もう少し、深く…その…探求してみたら?」

−−−−一体、何をこれ以上探求しろって言うんだ?

地球の裏側で発見された新種の昆虫でも見るようなおかしな顔を、私は多分このときしていたに違いない。

心理療法家たる者、アブノーマル(?)な趣味に歯止めをかけてくれるはずだ、という先入観をあっさり覆され、私は覚束ない足取りで彼のオフィスを後にした。

その後、毎度のごとく、同じソファの上でBLの感想を語ったり、感想を文章にしたものを持参して目を通してもらったりするようになったのだが、「ここでこんな話をするのは、無作法極まりないのではないか」と幾度となく思い、「今度こそ別のセラピストの所へ行くよう勧められるのではないか?」、「破門されるのではないか?」と気を揉んだ。しかしついにそういうことはなく、BLのどこがどう「素晴らしくうまい」のかについて、いつももっと詳しく探求してみるようにと温かく励まされるのだった。

この過程で私は、BL愛好家であることについての自分の罪悪感−−−−おそらくBLについての心理学的な「探究」などに着手せず、BLをただ単に「楽しいもの」」「心地よい」ものとしていたなら決して感じることはなかったであろう罪悪感−−−−「自分のBL愛好家としての心理をBL愛好家でない人にも分かるように伝えよう」などという大それたことを思ったばっかりに生じたと思われる「境界侵犯」の罪悪感−−−−に苛まれることとなった。

一度などは、自分がセラピストに対して悪いことをしているのではないかという罪悪感の発作に襲われて−−−−彼に対して不当に侵入しているように感じ−−−−数日間生きた心地がしなくなったが、ひとたびセラピストがセッションの時間外に私の要求のために使う時間についての料金の取り決めができると、この罪悪感はまるで嘘のように解消した。

またある時は、職場へと自家用車を走らせている最中に「だんだん淫(みだ)らになっていく私」という文字が目に飛び込んできて、自分のことを言い当てられているように感じ混乱した。落ち着いてよく見ると、その文字は目の前を走るトラックの車体後部に取り付けられた金属製プレートに書かれたものだと分かった。私は「ついに頭がおかしくなったのでは」「それ見たことか」と思い、自分の見ているものが幻覚である証拠を探そうと躍起になったが、とうとう見つけることはできなかった。

この出来事を彼にメールすると、この時はさすがに私の状態に危惧を覚えたのか、返信に「心の次元のこととして、取り組んでいきましょうね」と書いてあったので、私は思わず笑ってしまった。

この仕事に取り組むまで私は、フロイトが生きたヴィクトリア朝時代の人々に対し、性的に抑圧されていたという意味において「かわいそう」または−−−−今にして思えばだが−−−−滑稽にさえ思っていたかもしれないのだが、取り組みが進むにつれて、自分も彼らを笑えるほどの資格はないと思い知るようになった。

この時生じた罪悪感について私なりの見解を述べたい。誤解しないでほしいのだが、私は「BL愛好家は罪悪感をもつべき」などとは思っていない。

BLは「家父長制の抑圧から女性が逃避して性愛を楽しむためのツール」と言われている。あくまで「逃避」して楽しんでいる限りにおいて、それは全く罪のない遊びであると私は思っている。それだって、私という女性にとっては十分素晴らしい経験であった。しかし、私の中のある部分は、「それだけでは物足りない、逃避するのではなく、抑圧しているものと向き合いたい、対決したい」と思っていたようなのだ。このように、私の姿勢が逃避から対決へと転じる瞬間に、罪悪感は産声を上げるようなのである。

そういった訳で、私がこの論考を書き上げるには幾多の罪悪感を乗り越える必要があった。

これを書くことは、「BLに興味を持たない人を放っておいて、BL愛好家同士秘密の花園に遊ぶ」ことではなく、「自由に性愛を楽しむためにBLという手段を必要とする現実の女性が生きている社会」について考えたり、「私の生き方(あるいは現実の社会)がどのように変わればそのような手段がなくとももっと自由に性愛を楽しめるようになるのか」を問うことだった。

話を戻す。私はBLの素晴らしさについて、多くの友人達と意見を交換したが、そこには当初、様々なコミュニケーションのギャップがあった。

例えば、実際に性行為をするような間柄であっても、セックスに関して自分の感じていることを言葉にして伝えるには越えなければならない壁があった。そして友人達の多くもまた、セックスができる関係と、セックスについて話せる関係はまた別という考えを持っていた。さらに、性的な関係にない男性と性的なことについて意見交換することには、当然ながら壁があった。また、性被害のサバイバーである友人は−−−−当人が十分回復して健康になっているにも関わらず−−−−被害を受けていない人と性に関する話題をもつことに日頃から困難を感じていることが分かった。なぜなら、被害を受けていない女性は、被害をカミング・アウトされると、どう接していいかわからないということが、往々にしてあるからである。また、女性同士で性的な事柄を話題にする上で、BLを好きな人と、そうでない人の間にもやはり壁があった。BL愛好家の女性で、そうでない女性に対してBLの魅力をうまく伝えられた経験のある人は−−−−私を含め−−−−ほとんどいなかった。私に協力してくれた人たちの中で、ヘテロセクシャル(異性愛)の男性のBLに対する態度にはグラデーションがあり、BLを楽しむことができる人もいれば、それは無理だが私とBLについて話すことを楽しめる人など、様々な人がいた。

彼らとの対話の中で、繰り返し発せられた問いがあった。

「なぜBLなのか?」

−−−−時に冷たく、そして時に温かく−−−−その問いは発せられたが、要は「なぜ男同士でなければならないのか?」ということであった。

自分にとって感覚的に自明であることを、人に説明するのが、こんなにも難しいと感じたのは初めてかも知れない。

しかし私は確信していた。

たとえ言葉で説明できなくとも、すべての答えは既に私の中にあると−−−−。

私は自分がBLを嗜好(しこう)する無意識的な意味や動機を、そしてBL文化とメイン・ストリーム文化との位置関係を、自分自身の体験を通して「可視化」したいという野望を抱いた。

本書全体が、その試みの結果である。

エッセイの前半部分で私は、自分のBL趣味と関連していそうな個人的体験を挙げた。この体験をどのようにして選び出したのかについては後述する。

エッセイの後半部分では、私がBL作品で味わった感動の性質を、現実世界における女性のありようと結びつけて解釈することを試みた。

ぼんやりと潜在意識で感じていたことを明確な言葉として切り取る作業の過程で、まるで、新しい眼鏡をかけて世界を見るかのように、自分の過去や現実の社会がこれまでと全く違って見え始めるという現象に私は驚かされた

私は何か思いつくか、少し書き進めるごとに、友人達と内容をシェアし、ディスカッションを重ねた。

私たちはその都度少しずつ、お互いの間にあるコミュニケーションの溝を越えていった。

ある人は、私が「置き場のなかった感情の置き場をつくろうとしている」と言い、別の人は、私が「多くの女性の悩みを代弁している」、「言いたいことを言ってくれてスッキリした」と言ってくれた。

またある人は、この件について私と話をするのが、まるでレズビアンになったみたい、と言って笑い、別の人は、このエッセイを通じて、私の繊細さや知性や暴力性に触れるのが、まるで私とセックスしているみたいだ、と言った。

またある人は、「抑圧する側は、抑圧されてる人の気持ちがわからないから、絶対に書くべきだ」と言ってくれた。

ある人は、私の体験と性被害者の体験との関連性についてヒントを与えてくれた。

私と性被害のサバイバーの友人は、多分以前から直感的には知っていた、お互いの経験の違いを超えた共通性を確かめ合った。

ある人は、「これまで自分のSM性癖を後ろめたく感じてきたけど、市民権を得たようで嬉しい」と言ってくれた。

またある人は、このエッセイをきっかけとして、自分自身が性的な興奮とともに感じている様々な情緒について気づくことができたと言った。

女性のうち約2名は、中高生の頃、NHKのテレビシリーズ『アニメ三銃士』の二次創作同人誌(男になりすました女性であるところのアラミスと男性キャラクターとの性愛の物語)に熱狂した経験があった。また、私を含めた2名は、『天(そら)は赤い河のほとり』という、内面も外見も少年に似た少女が活躍する少女漫画のファンであった。こういった趣味は、BLに比べるとややメイン・ストリームに近く、BLの文化はメイン・ストリームからより偏奇していると私は考えた。そのうちの一人は、私が何か仮説を出すたびに「男同士である必然性が、きっともっとあるはず」と言い、何度も私に質問を投げかけ、さらに先へ進むよう私を励ましてくれた。私と彼女との微妙な違いが、私の軋みがちな思考力に油を注し、それまで気づきもしなかった点を気づかせてくれた。

私自身の変化としては、当初は自分の中のマゾヒスティックな面に市民権を与えるだけで四苦八苦していたのだが、「君臨せよ!(以下省略)」の項目を書き終わる頃には、自分の中のサディスティックな面についても平常心で受け入れることができるようになっていた。以前はSの面を人に指摘されると、まるで「切り裂きジャック」と言われたかのような極端な反応を示していたのだが−−−−。

私たちはこういったコミュニケーションを心から楽しんだ。

これは多分、私が「父なるもの」への罪悪感−−−−先ほどの罪悪感に名前を付けるとしたらそうなるのではないかと思うのだが−−−−をいくらか越えることができたからこそ、フィクションの中だけでなく、またBL愛好家同士の間だけでもなく、現実の中でお互いの違いを超えて築くことのできた関係性なのだと思っている。

本書はこうして生まれた。

痛い青春

「セックスがしたい。ただし挿入されるのでなければ」

というのがあの頃の私の正直な気持ちだった。

 

多分、私はとても怖がりなのだ。

 

そして、初めてのときはどんな相手がいいのか考えてみるに

童貞か少ししか経験のない男性?

−−−−いや、とんでもない!

処女とセックスした経験のない人?

−−−−いや、とんでもない!

……

てな具合。

 

いや、そもそもまず

「挿入されたことのない人に挿入される」ということ自体が

とても微妙なことだと私は思っていた。

 

いやいや、だって普通でしょ?

注射された経験のない医者に注射されたいと思わないでしょ?

真面目な話。

 

そんなわけで

どこか「両性具有的な匂いがする」と私が勝手に感じることのできる、

女性としての先輩でもあり、なおかつ異性愛の男性であるような男を私は求めていた。

 

お互い好きになれて、セックスをしたいと思える関係というのがまず大前提であり、その上にさらにこれだけの条件を付け加えたら、これらをすべての条件を満たす人物を、自分のお粗末なコミュニケーション能力の範囲内で見つけ出すのは至難であり、それを考えるにつけても「長くお付き合いができそうか」などという基準は、私の中ではるかに優先度の低い事項ということになるのだった。

 

昔祖父が、ちょくちょくお世話になっていた病院で、

注射をすると聞いて逃げ帰った話をしてくれたことを

私は思い出す。

なんでもそのお爺ちゃん先生は、注射がどうしようもなく下手ッピーだったらしい。

若い頃から下手だったのか、年をとって手元が狂うようになったのかは不明。

奥さんのナースは注射の手際が良かったらしいのだが、処置室に通された私の祖父は、お爺ちゃん先生の方が注射を担当するのだという気配を感ずるや否や、診療費だけをその場に残し病院を飛び出したというのだ。

 

−−−−いやぁ、おじいちゃん、私も同じ気持ちだったよ!

と私は心の中で叫ぶのだった。

読んでくださる方へ

女性による女性のための神話としてのボーイズ・ラブ

 −−−−私がボーイズ・ラブ作品を通じて

女性であることの誇りを取り戻せたことについて−−−−

私は基本的にこれを、

性に関する無意識的な傷つきをもった女性、

ボーイズ・ラブを愛する人、

巷に溢れる性に関するステレオタイプな言説に飽き飽きしている人、

自分の性的な体験について、情緒的に深めたいと思っている人、

性的なことに関連した情緒について、もっとオープンに、

そして繊細に語り合いたいと思っている人のために

書きました。

ようこそ 関係性の新たな地平へ。

そして、豊かな愛とエロスの世界へ。