寝室から職場まで

会社の中で本音を言えない日本のサラリーマンの生態について、ホリエモンと厚切りジェイソンが対談していた。(敬称略)

「Why? 本音を言えない日本人」最終回(NewsPicks イノベーターズ・トーク)URL: https://newspicks.com/news/1404255/body/?ref=search>

堀江:(略)日本人は「仲がいい相手とはすべての意見が一致しないといけない」と考えてしまう。

(中略)

堀江:俺はね、ハッキリ言うんですよ、偉い人に対しても。「いや、○○さん、それは違うと思いますよ。間違っています」と。するとシーンとなっちゃって、「それ言っちゃダメだよ」っていう雰囲気になるからね。

厚切り:いやいや、そう言うことによって相手の意見をきちんと説明する機会を与えることになるし、話し合えるでしょ。その結果、かえってお互いに理解が深まることになると思うんですけど。

堀江:それができるのは、日本ではごく一部の人だけ。意見の違いを理由に仕事を干されてしまう人、よくいるんですよ。本音を言い合うことに慣れていないんですよ、日本は。若い頃からディベートの訓練を受けていないという理由が大きいと思うんだけどね。

(中略)

厚切り:その教育がなされていないのはなぜ? 必要だと思われていないから?

堀江:意見の相違を尊重し合える教育が重要、と思っている人たちが少ないってことでしょう。特に意志決定するリーダーたちの理解が足りない。

この対談では主に、上司に不満を言えない部下のシチュエーションについて取り上げていた。

上の立場の人が自分と違う意見を尊重できないということは、違う意見を持つ部下の存在によって、自分が脅かされる感じがするからだと私は思う。そしてそんなふうに脅かされると感じるのは、その人自身、本当には自分自身を肯定できていないから。だから自分を肯定するのに自分が他人と同じであることを必要とする。

こういうナイーヴで繊細、傷つきやすい部分は日本人が他人への気遣いができる所以でもあるんだろうけど、要は、傷つきが簡単に許容範囲を越えちゃう人が多いということだろう。そして、一度許容範囲を超えちゃったら相手を嫌いになって簡単にコミュニケーションを閉ざしてしまう人が多いということだ。

これを図式化すると、「意見が違う」→「自分を否定されたと思って傷つき、この相手とは信頼関係が築けないと思う」→「話してもムダ」ということだ。だから、部下の立場では上司の許容範囲を慎重にうかがいながらコミュニケーションするというのが、一般的な日本人のあり方なのだろう。

意見の違いを超えて対話するには、「意見が同じ」ということに基づかない信頼関係が必要になる。双方に「意見の違う相手との対話には意味がある」という共通認識が必要なのだ。たとえその過程が双方の痛みをともなうとしても−−−−。

このパターンって何かにすごく似ているなーと思いながら、私はお二人の対談を聴いていた。職業柄、私は人の悩みを聴く機会が多い。それもどちらかというと女性の悩みを。女性たちが夫や恋人といったプライベートのパートナーとの関係で抱える悩み−−−−これがまあ、驚くほどこの対談で語られていることとそっくりなのだ。

「日本では、セックスについての意見や好みが違うパートナーとじっくり話し合い、互いの理解を深め合うということができるカップルはごく少数である。自分の好みや要望や不満を言うことで、相手に嫌われちゃうんじゃないかという心配から結局何も言わずに相手に合わせる人が多い。そうしているうちにセックスは、もはや楽しいものではなく苦痛に変わってしまう。そのためセックスレスになるカップルも多い。解決策としては性教育の中にセックスに関するコミュニケーションなどのテーマを設け、自分の要望の伝え方や相手への配慮の仕方についての訓練を積むことが必要。ところが意思決定するリーダーの間でこういったスキルが必要というコンセンサスがないため、なかなかそういう方向には行かない」

いやあ、びっくりしませんかこれ?

あなたは本音を言えない相手とセックスでしたいですか?

意思決定するリーダーが動くまで待てますか?

一つだけ言えることは、あなたの寝室でのコミュニケーションを変えることは、日本を変えることにもつながるってことですね。

涙は女の精子⁈

「そうか、涙は精子だ!」

と彼が言った。

私は意味が分からず頭が真っ白になった。

女性の涙を苦手とする男性は多いらしい。

恋人が「今度会う時泣かないでね」と言うので、「そんなの会ってみなくちゃわからないじゃない」と言ったら、「感情だからしょうがないってことだよね」と彼。彼の家族は、彼を含めてあまり泣くことがないらしく、私の涙に戸惑うらしい。

「いや、泣くのはいいことだよ。でも、なんで会っていきなり泣き出すのかがわからないんだ」

「普段我慢してるものが、安心できる人に会った途端溢れ出すことってあるでしょ?安心して感情を出せる人がそばにいなかったり、自分の中にそういうスペースがない時」

すると彼は得心したように、冒頭の名ゼリフを吐いたのだ。

落ち着いて考えてみるとどうやら、私にとっての涙が彼にとっての精子に似ているということが言いたかったらしい。

親密な関係の相手にしか出さない、という意味で。とんちんかんなことを言うと思ったが、私の言いたいことは伝わったようだ。

男性のみなさん、もし恋人があなたに涙を見せるとしたら、それはきっと彼女があなたを信頼しているから−−−−。

女性のみなさん、貴女がもし恋人に涙について問われたら、「涙は女の精子」と言ってみると、案外通じるかも。いや、保証はできませんが…。

訪問して下さった方へ

そろそろ投稿整理しないと分かりにくいですね(⌒-⌒; )

私はこちらのwebsiteでの発信を、今後二つのラインでやっていきたいと思っています。

一つは、女性にとってのBL存在意義を、歴史の中で、また女性の個人史の中で心理学的に分析し、仮説を構築するライン。

もう一つは、大人の女性として、「性」について分かりやすくポジティブに発言していくライン。

サイトの体裁を整えるのに少し時間がかかると思いますが、貴方のお好きな方を読んでくださると嬉しいです。

エピソード1

それは私がまだ10歳になる以前のことではなかったかと思う。

『〇曜ミステリー』というような、ミステリー系のテレビドラマを家で見ていたときにそれは起こった。

それはセックスの場面でさえなかった。もっとも、その頃の私は、セックスが何かということについて、厳密には知っていなかったが。それは殺人の場面だった。当時はよく分からなかったのだが、今にして思うとそれは、それまで親密な関係にあった男女間の殺人で、全裸の女性が男性に殴り殺されるというシーンだった(より正確に言うと、演出によって、殴り殺しているように視聴者に見せかけるため、平手で叩いていた)。ドラマ全体の筋書きについてはほとんど覚えていない。そのシーンだけが妙に鮮明に脳裏に焼き付いている。

とにかくそれを見た私は、瞬間的に、殺される恐怖と、性的な興奮に同時に襲われ、自分で自分をどうしたらいいのか全く分からなくなってしまった。(性的な興奮をそれと判別するぐらいの認識力は、当時持ち合わせていた。)踏み込んではいけない深淵を覗いてしまったという後悔にとらわれたが、私には、自分がそこから引き返す能力を欠いているのがわかった。性欲と恐怖の両方に首根っこをつかまれているような状態で、精神的な意味で身動きがとれないのだ。その片方だけでも当時の私の心臓を鷲掴みにするぐらいの力があっただろうに。

まるで、自分のものではないかのような、おかしな具合に感じられる身体と、頭にこびりついて離れない忌まわしい映像に長時間悩まされた挙句、今度は、こういう自分はどこか異常なのではないか、という新たな悩みがそこに加わった。なぜなら、今自分が陥っている体験について、本で読んだり、人から聞いたりしたことがなかったからだ。しかも、それが異常であろうがなかろうが、このような矛盾を内包した存在として、自分は生きていくよりほかないのだという絶望的な悟りのようなものが私の中に生じ、そこから、そのような自分が歩むに違いない未来を想像してみたときに、私は、暗澹たる気持ちになった。

もしもこの女性が素手で殺されたのではなく、銃やナイフなどの武器で殺されたのだとしたら、おそらく私はここまで衝撃を受けることはなかっただろう。なぜなら、素手で殺されるということは、自分が男性と二人きりになればいつでも殺される可能性があるということを意味するように私には思えたからだ。そんな吹けば飛ぶような命を今自分が生きている、しかもそれは自分が女であるからかもしれないと思うと、私はそのことを呪いたくなった。

さらに、この犯人の男は、何度も肌を重ねたこの女性に対して、せめて苦痛を与えずに殺すとか、快楽のうちに死なすといった優しささえ持ち合わせていないのはなぜなのか?

そして、尊厳を傷つけられたと言っていいほどの嫌な気分にもかかわらず、同時に性的に興奮もしている自分?これは一体何なのか−−−−?

はっきり言って自分自身にとってさえ意味不明なのである。私を興奮させたトリガーは、女性が裸であったことと、「殺される!」と感じたことであった。この性的な興奮と私の自己保存の本能とは明らかに真逆の方向を向いているではないか。つまり、この性欲というやつは、私の一部であるにも関わらず、私の「生きたい」という最低限の望みにさえ反逆する場合があるということなのだ。そんな性衝動の存在を私は許すことができるのか?

イギリスの諺で「好奇心は猫を殺す」と言うけれど、この性欲はいつか私自身を殺すのではないかという予感に私は慄然とした。

−−−−もしそうでも、私はそいつ(性欲)を手放せない、手離さない。それは人間として間違っていることなのだろうか?

百歩譲ってこの性的な興奮が、死の恐怖をはるかに凌駕するほどの快楽を私にもたらしてくれたのだとしたら、私はまだ自分を許す気になれただろう。そうすれば話はまた違ったと思うのだが、「虫ケラのように扱われいる」不愉快さが邪魔をして自慰をする気にもなれなかった私には、何のカタルシスも与えられないのだった。

さらに、一つの刺激によって死の恐怖と、性的な興奮が同時に生じたために、両者が必ずセットになっているものと、私は誤解したのかもしれない(ジョルジュ・バタイユがその著書『エロティシズム』で述べたように、「死」の概念を「象徴的な死」即ち個体の境界の消滅ということにまで拡大すれば、これは全く誤解ではなく正しい理解ということになるのだが)。

後に私がこの体験をセラピストに語ったとき、彼は、私が当時不思議な仕方で投げ込まれたこの葛藤状況の苦しさに理解を示し、こう言った。「そうした場合、今のあなたには少なくとも三つの選択肢がある。一つは『性的な興奮に集中する』こと、二つ目は『死の恐怖に集中する』こと、そして三つ目が『性的な興奮と死の恐怖を同時に感じる』ことだ。少なくとも今はもう君には選択する自由と力がある」

 

腐女子は自らの女性器をどう捉えているのか?〜「やおい穴」をめぐる議論に思う〜

BLでは「受け」の男性の体のある部分、つまり「攻め」の男性の男性器を受け入れる部分が、まるで女性器のように機能しているように描かれているのが、現実にそぐわずおかしいのではないか、という議論がある。

これについては、BL愛好家の間でも実に様々な意見があるらしい。

私がその議論を見ていてちょっと「不思議だな」と思うのは、BL愛好家の女性が、自分の女性器についてどう思っているのか、という視点がすっぽり抜け落ちているところ−−−−。

みんな、女性器は男性器を受け入れることについて、いつでも問題なくスムーズに機能するものだと、根拠もなく勝手に思ってるみたいなんです。

だけど、そもそもまだ一度もセックスをしたことがない若いBL愛好家も大勢いると思うのですが、彼女たちは「自分の女性器はスムーズに男性器を受け入れられる」なんてホントに思ってるのかしら?

自分はそういう年齢のときにはとてもそんなふうに楽観的にはなれなかった。そしてセックスへの欲求と同時に不安や恐れが一杯あるからこそ、自分はBLを求めたと思っているので、そういう状態のときに「男性の肛門・直腸を女性器と同じように描くのはおかしいのでは?」などという批判に曝されなければならないとしたらそれは結構酷なことだと思う。

学校の性教育でも初めてのセックスに伴う痛みについてはあまり教えていないようだし、自分の女性器がどう機能するのかさえ実地には知らない女性にそれを突きつけるのってどうなのよ?そのときに、みんなが女性器はスムーズに機能するという前提を暗黙のうちに持ってるらしいのも、ものすご〜く変に思える。でも私もそんなふうに話を振られたら、その前提に乗っかって話しちゃうかもしれないと思わせられるのが、この話の怖いところ。だって「変な女」と思われたくないから(悪)

私の初体験のときはと言えば、「飛び上がるほど痛い」というのが比喩だったらまだいいのだが、私の場合実際に飛び跳ねてしまうので、屈強な肉体を持った当時の私のセックス・パートナーも私を捕まえていることができず、お互いがセックスしようと望んでトライを始めてから三日目まで全く挿入には至らなかった。三日目になったところで、私たちはようやく彼の体重の全てを私の両太腿に乗せることで何とか挿入できそうということを発見し、やっとこさでほんの少し挿入できたという具合だった。

信じられないかもしれないが、そのとき私はとても幸せだった。私はあの日の二人を戦友として讃えたい。

もちろんスムーズにいくならそれはそれで良いことと思うけど、私はいろんな人に訊いてみたい。「あなたはどうだったの?」「簡単でしたか?」と。

それから「やおい穴」について議論している人には、ぜひ一度CockyBoysを見ることをオススメしたい。CockyBoysはニューヨークを拠点とするインターネット視聴に特化したゲイ・ポルノ・メーカーで良質な作品を量産している。見るにあたっては、日本での視聴は映像が修正されていないため違法となる可能性が有るので、自己責任で見る場所や視聴の方法を判断してほしい。それを見れば、彼らのセックスが男女のそれと比べてスムーズでないなどとは少しも思えないし、挿入する方の男性が愛情をこめて自分の唾液で相手の開口部を濡らしているので、濡れないからセックスが困難などとは全く見受けられない。さらに、ごく自然に挿入する人とされる人が入れ替わってセックスする様子も新鮮でハッとさせられる。

私が言いたいのは「みんながこうだ」ということではなく、物事は一概には言えないということである。

女性の場合も前立腺はないけれど、肛門の入り口は普通に気持ちがいいと思うんですが、あなたはいかが?

 

思春期の君へ、あの頃の私へ

若い頃はどうしてあんなに性に関する話をすることのハードルが高かったのだろう?

この年になってみると、それについて話したところで失うものなんか何もないように思えるのに。

まず子供の頃はそれについて話す言葉を持たなかった。

さらに、それに対する大人の反応はどこかぎこちなく、急に腹が痛くなったか大事な用事を思い出したか、訃報に接した人のように不自然で、大の大人をそんな風にうろたえさせるということはどこか恐ろしく、こちらまで居心地悪くなるのだった。

それでも子供の特権でわざとどぎついことを言ってみたりするのだったが、自分が物を知らないということを見透かされてるようで恥ずかしくなった。

思春期になると、しばらくの間は同年代で性に関する話題に花を咲かせたものだが、そのうちに−−−−今になってみるとバカバカしいほどちっぽけなプライドのために−−−−経験がないということが急に恥ずかしくなり、話をする機会もめっきり減ってしまったのだった。

藤本由香里が「女性は視覚では欲情しない」というような文章を若い頃読んだばっかりに、自分は男ではないのか、と真剣に悩んだという経験を書いていた(『快楽電流〜女の、欲望の、かたち〜』より)。私も随分この手の「女性は〜しない」というような言説に右往左往させられて悩んだ覚えがある。

なぜだか知らないが性に関する体験は、自分と一般とを引き比べて「自分はどこかおかしいのではないか?」と人を悩ませるケースが多いような気がする。−−−−特に若い時分には。

こういうこと一つとっても、もう少しオープンに性について話題にできたり、性に関する個々人の多様性を自然に認め合うような文化・風土があれば、それほど悩まなくて済むようなことばかりではないだろうか?

思春期の頃の私は、大人の女性たちが性についての一般的な知識などではなく、「私」を主語にして性に関する自分の生き方、自分独自の考え方などをオープンに語ってくれないことに対して、かなり不信感をもっていた。女性が性について話すことへの抑圧がある社会というのは、思春期の自分にとって全くフレンドリーではなかった。

さて、大人になった私はある日はたと気づいたのだ。自分が個人的に性やセックスについて困ることがなくなったからと言って、それについて押し黙っていたら、私の行動もまた、思春期の頃の自分が嫌っていた大人の女性たちと何ら変わりがないという事実に−−−−。

こんなことでは世代を重ねてもちっとも人類は進歩しない。100年後の少女は私と同じ問題で悩むのだろうか?もちろん現代にしたって昔に比べれば少しずつ状況は改善されているとは思うが。

そういうわけで、思春期の自分に恥じない生き方をしたいという、それ以上でもそれ以下でもないのですが、「私」を主語に性に関する発信をしていきたいのです。

女性が「性」の主体として生きること〜BLを通して〜

さて、ここまで私をBL評論にのめり込ませたものは一体なんだったのか、ということについて、エッセイを一通り書き終えた後で、私はもう一度つらつらと考えていた。

 一般的に、BLは女性に対する家父長制の抑圧と関連しているとされている。

それでは私の生まれ育った環境は、女性差別的な要素が強かったのだろうか?いや、どちらかと言えばむしろ両親は男女同権主義的な方である。

先日親と話していて、「ああ、こういうものと私は長年戦ってきたのだな」と腑に落ちる出来事があった。

親が、私のやや露出の多い服装について小言を言ったのだ。

「そのような格好をしていると中身のない人間と思われる」あるいは実際に私が「中身のない人間なのかもしれない」ということが親の主張の中心であった。しかし、露出の多い格好とは言っても、服から胸がはみ出していたわけでもなかったし、パンツが見えていたわけでもなかった。

私としても、親が言うように「性的な魅力や外見的な魅力のみに頼り、内面を磨こうとしない人間」になりたいとは思っていないし、性的な存在として、自分の意志に反してまで人に利用されたいと思っているわけではない。そのような心配なら理解できる。

しかし同時に私は、私が「中身のない人間」かどうかということについて多分他人よりもよく知っているし、私のことを「中身のない人間だと思う人がいるかもしれない」という唯それだけの理由で、自分の服装を規制したくはないと思った。なぜ、そいつらに自分を合わせる必要があるのか?

そのような規制は、「他者評価に依存したあり方」という点で、性的な魅力や外見的な魅力だけに頼ることと、驚くほど類似していないか?

思えば親は、私が子供の時分から早四十になろうという現在に至るまで、私がおしゃれを楽しもうとしたり、髪型を変えたり、恋人を作ったりするたびに、このようなメッセージを発してきたのだ。

小学校低学年の頃だったろうか。知り合いからお古としてもらった子供用のマーメイドラインのワンピースを、試しに私に着せてみて、親は言った。「ホステスみたい」と。その一言でそのワンピースは一度も着られずに捨てられる運命となった。

私は親の声色の中に、微妙な嫌悪感と軽蔑のニュアンスを感じとった。そして、それによって私の中の「娼婦である」ような部分が傷ついた(当時その言葉を知っていたかは別として)。

もちろん娼婦とホステスは同じではない。また、当時の私が現実に性的なサービスの対価としてお金をもらっていたということではない。ここで娼婦と言ったのは、「性的な魅力に物を言わせること」として考えていただきたい。そのように考えれば、ほとんどの女性またはある場合には男性も娼婦であることに間違いないのだが、この時私は自分のセクシュアリティが、「女性としての正しいセクシュアリティ」と「そうでないセクシュアリティ(ホステス)」とに分断されたように感じていた。「これはいいけど、あれはダメ」というふうに。

先日のやりとりで私はそのことを再認識されられた。私が大人になった今でも、親が私の中の「娼婦」性を嫌っているということを−−−。親にしてみれば、私が恋人を作ったり、おしゃれを楽しむことは、娼婦であることと同様に忌むべきことらしかった。彼らは多分を私を子供扱いしているのだ。そして彼らの理屈では、彼らが思う「正常」な判断を欠いた私の行動は私が子供である証拠以外の何物でもないのだろう。

しかし彼らがこのように考えるのは、彼らの頭の中に、「女性がおしゃれをする」=「性の客体として利用される」という固定化された図式しか存在しないからかもしれないと私は思った。

私はただ、自分が性的な存在であることも含めて自分を楽しみたいと思っているだけなのだ。

つまり、性の「主体」であろうとしているだけなのだ(私はここで、性的欲望の「客体」にされることに喜びを見出すマゾヒスティックな「主体」を否定しているわけではない。それはそれで良いと思う)。

そして、このような主体としての私の欲望を仮に抑圧した場合に損なわれる私のQOL (quality of life)について、親が保障することは不可能だし、第一彼らはそれを意に介さないだろう。

小学生のとき、クラスの数名の男子が、クラス全員の前で腰をくねらせるセクシーなダンスを披露した(これは恐らくマイケル・ジャクソンの影響ではなかったかと思う)。私はクラスメートらと共にそれを楽しんだが、同じことを自分がしたら怒られるのだろうか、と考えると複雑な気持ちだった。

なぜ男の子がすると笑って受け止められることも、女の子がすると眉を顰められるのだろうかと私は納得がいかなかった(もちろんその逆の反応になる振る舞いもあるとは思うが)。

こういったことの積み重ねにより−−−もし自分が男だったら−−−私は性的な存在としての自分や「女性であること」をもっと楽に自由に楽しめるんじゃないか(時には娼婦のような部分も含めて)?と感じたことが私をBLに向かわせたのだと思う。

余談だが、私がおしゃれすることを喜ぶ男性の中には、彼らにとっての「客体」としての私のみを見ている人と、主体としての私を応援してくれる人が両方いるのはもちろんのことである。

さらなる余談。

腐女子には「非モテ」を自認する人が多いとされるが、その心は「客体」としてのみモテるぐらいならモテなくてよい−−−とする不敵な笑いなのかもしれない、とこれを書きながら私は思った。「非モテ」は、「主体である」という選択をしたことの勲章なのだ。

そうは言っても、主体としてだろうが、客体としてだろうが、その両方でモテたいというという願望があることを私は否定しないが。そうすると、さしずめ「非モテ」はやせ我慢だろうか(笑)。

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著者インタビュー1 伝えたいことは?「黒子のバスケ」の逆とは?

 友人でカウンセラーのY.K.さん(女性)に、私がこのエッセイを書いた動機についてインタビューしてもらいました。

−−この作品で真名さんが狙ったのはどんなことですか?

……そうですね。一言でいえば、ボーイズ・ラブ(以下BLと略す)愛好家とそうでない人の架け橋になることでしょうか。

−−具体的にはどういうことですか?

BL愛好家がBLを愛する奥深い動機を、愛好家でない人にも分かりやすく、面白く伝えてみたいと思ったんですね。

−−それはかなりビックリですね(笑)。なぜ、それをやってみようと思ったんですか?

いつだったか、はっきり覚えてないんですが、「『黒子のバスケ』がどうして腐女子に人気があるのか」を考えてみたことがあったんです。
※『黒子のバスケ』は『週刊少年ジャンプ』(集英社)に連載された藤巻忠俊作のマンガです。
『黒子のバスケ』は大ヒットした少年マンガですから、もちろん色んな層に訴えかけるものがあったと 思うんですよ。「イケメンの登場人物が多いから」という説もありますが、私はもっと別の側面があると思っていて。

−−それはどんなことですか?

主人公の黒子が、体格的に劣っている部分とか、存在感のなさとか、非力さといった色んなハンデを背負いながら、それを逆手にとって、オンリーワンの存在として活躍するわけですよ。

−−それはそうですが、それと腐女子がどうつながるんですか?

これは、BL愛好家(腐女子)としての私の主観なんですが、黒子が大好きなバスケをやり続ける中で直 面する劣等感や屈辱や不安、それから、決して諦めず心に抱き続ける夢と野望、そして目標を達成した ときの喜び、そういったものが、女性が生きて行く上で感じる不安やその他の感情と通じるものがあっ たからだと思うんです。

もちろん女性であることについて特に違和感や不安をもたない女性もいるでしょう。しかしこの作品 は、女性だけでなく、色んな形のハンデを抱えた人の心に訴えたと思っています。

−−なるほど。

しかも、ハンデを乗り越えるために、自分の努力だけで何とかしようとするのではなく、パートナーと の深い信頼やチームワークで乗り越えていきますよね。そういった部分も女性の生き方と重なる部分が あるんじゃないかと感じています。
だから、この主人公は、私のような女性にとって、自分の不安や希望を重ね合わせることができる格好 のキャラクターだったんだと思うんです。しかもかわいいし(笑)。だから、女性にとって、「フィク ションの世界で黒子くんになってみたい」、「その世界で男性とセックスしてみたい」っていうのは、 ある意味自然なことだと思うんですよ。

−−大分わかってきました。

さらに言えば、思春期に、男性と性的な関係を持つということについて、不安や恐れを感じたことのあ る女性はたくさんいると思うんです。しかも多くの場合、それについての欲望や夢も女性は持ってい る。それは正に、バスケに対する黒子の立ち位置と同じです。そして、その不安を、ちょうど黒子がバ スケで成し遂げたようにして乗り越えていけたら−−、そういった願望があるんじゃないでしょうか。

−−ああ…なるほど−−。で?それが真名さんのエッセイとどう繋がるんでしょう?

私はこの逆がもしできたら、面白いんじゃないかと思ったんです。

−−「逆」というとどういうことですか?

えーとですね。誰もが合意できる現実のレベルでは、男性である「黒子くん」の悩みと今言ったような 女性の悩みとは、別物と言えます。しかし今説明したような共通点を感じとる人もいるわけです。彼女 たちは現実には自分が女性であると認識しているわけですが、一方では「自分は黒子である」という夢 を見ているのです。
※この説明にはアーノルド・ミンデルが提唱したプロセスワークの「現実の三つのレベル」の概念を使 用しています。
こんなふうに、人に夢を見させることができるのが、フィクションの力、芸術の力、という風にも言え ると思います。つまり、読者にとって現実的には自分と共通点がないようなキャラクターに感情移入さ せることができるわけです。そして、その体験を経た読者は、以前と違った目で現実を見るようになる かもしれない−−というオマケ付きで。
※BL愛好家の女性が黒子以外の男性キャラに感情移入する場合もあると思いますが、ここでは話を単純 化しています。
で、問題はこの「逆」です。 BL愛好家である私が、自分がBLを愛する理由を心の深層にまで降りて行って掴み取るとき、その本質は、BL愛好家でない女性や、男性にも通じるのではないか、ということです。 私はシンプルにその可能性を信じてみることにしました。

(つづく)

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( #黒子のバスケ #BL )

 

自分で自分のことを「性的なことで傷ついている」とは思っていないあなたに贈ります。

出版準備中のエッセイは、「BLが私の性的な事柄に関する自己愛の傷つきを癒してくれた」ということをメインテーマにしていますが、正直言って、私も最初は「自分が傷ついている」などとは少しも思っていなかったのです。

第一「自己愛が傷ついている」なんて考えてみるだけで、なんか傷つく感じがしませんか(笑)?

−−−まあ、そんな具合でした。

ではなぜ「傷ついている」と思うようになったかというと、BLを読んでいて、感動したり、癒されるポイントがあったときに、「どうして私はこのポイントで癒されるのだろうか?」という理由を突き詰めていって、その結論に行き着いたのです。

私の場合、自分でも普段はほとんど自覚していないようなセックスについての願望とか、性的なことに関して誰かに言いたかったこととか、とにかく何か自分自身で無意識に押さえ込んでいた感情や行動が、登場人物を通じて言葉にできたり体験できたときに−−−ああ、こんなにも心が動くものか−−−ということが多かったのです。

私も薄々自分が傷ついていることはどこかで感じていたような気もするのですが、そのことにはっきり気がついて言葉として認識したり、自分の願望を「意味がないこと」として「無かったこと」にするのではなく、現実の人間関係の中で実現可能かどうかはちょっと脇へ置いておいて、自分の願望を大切にする、その存在を認めるという気持になるだけで、ただBLを読んでいたときよりも根本的に癒される感じがしたのですね。

さらに、その傷つきについて言葉にしてシェアしてみたところ、BL愛好家でない多くの女性の友人からも、「同じ思いを抱えていた」という声をもらうことができ、お互いに癒される、という思いがけない嬉しい展開になりました。

ですから、BL愛好家の方もそうでない人も、私のエッセイを読んで癒されてくれたらとても嬉しいです。

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