本論考「女性による〜」はいかにして生まれたか

−−−−あれはもう今から3年も前のことになるだろうか。

もとより、心からBLを愛していたとは言え、私は当初BLを−−−−素晴らしくうまく−−−−「性欲を処理してくれるもの(肉体的かつ情緒的に)」、ぐらいにしか考えていなかった。

私は、その頃自分が教育分析を受けていた心理カウンセラーの、都会の真ん中にあるセラピー用のオフィスで、ぼそぼそした手触りの、柔らかすぎるくたびれた布張りのソファに、ほとんど埋もれるようにして座っていた。私が喉から絞り出すようにその言葉を発すると、セラピストは眉間にしわを寄せ、怪訝(けげん)そうに顔を上げた。

「もう少し、深く…その…探求してみたら?」

−−−−一体、何をこれ以上探求しろって言うんだ?

地球の裏側で発見された新種の昆虫でも見るようなおかしな顔を、私は多分このときしていたに違いない。

心理療法家たる者、アブノーマル(?)な趣味に歯止めをかけてくれるはずだ、という先入観をあっさり覆され、私は覚束ない足取りで彼のオフィスを後にした。

その後、毎度のごとく、同じソファの上でBLの感想を語ったり、感想を文章にしたものを持参して目を通してもらったりするようになったのだが、「ここでこんな話をするのは、無作法極まりないのではないか」と幾度となく思い、「今度こそ別のセラピストの所へ行くよう勧められるのではないか?」、「破門されるのではないか?」と気を揉んだ。しかしついにそういうことはなく、BLのどこがどう「素晴らしくうまい」のかについて、いつももっと詳しく探求してみるようにと温かく励まされるのだった。

この過程で私は、BL愛好家であることについての自分の罪悪感−−−−おそらくBLについての心理学的な「探究」などに着手せず、BLをただ単に「楽しいもの」」「心地よい」ものとしていたなら決して感じることはなかったであろう罪悪感−−−−「自分のBL愛好家としての心理をBL愛好家でない人にも分かるように伝えよう」などという大それたことを思ったばっかりに生じたと思われる「境界侵犯」の罪悪感−−−−に苛まれることとなった。

一度などは、自分がセラピストに対して悪いことをしているのではないかという罪悪感の発作に襲われて−−−−彼に対して不当に侵入しているように感じ−−−−数日間生きた心地がしなくなったが、ひとたびセラピストがセッションの時間外に私の要求のために使う時間についての料金の取り決めができると、この罪悪感はまるで嘘のように解消した。

またある時は、職場へと自家用車を走らせている最中に「だんだん淫(みだ)らになっていく私」という文字が目に飛び込んできて、自分のことを言い当てられているように感じ混乱した。落ち着いてよく見ると、その文字は目の前を走るトラックの車体後部に取り付けられた金属製プレートに書かれたものだと分かった。私は「ついに頭がおかしくなったのでは」「それ見たことか」と思い、自分の見ているものが幻覚である証拠を探そうと躍起になったが、とうとう見つけることはできなかった。

この出来事を彼にメールすると、この時はさすがに私の状態に危惧を覚えたのか、返信に「心の次元のこととして、取り組んでいきましょうね」と書いてあったので、私は思わず笑ってしまった。

この仕事に取り組むまで私は、フロイトが生きたヴィクトリア朝時代の人々に対し、性的に抑圧されていたという意味において「かわいそう」または−−−−今にして思えばだが−−−−滑稽にさえ思っていたかもしれないのだが、取り組みが進むにつれて、自分も彼らを笑えるほどの資格はないと思い知るようになった。

この時生じた罪悪感について私なりの見解を述べたい。誤解しないでほしいのだが、私は「BL愛好家は罪悪感をもつべき」などとは思っていない。

BLは「家父長制の抑圧から女性が逃避して性愛を楽しむためのツール」と言われている。あくまで「逃避」して楽しんでいる限りにおいて、それは全く罪のない遊びであると私は思っている。それだって、私という女性にとっては十分素晴らしい経験であった。しかし、私の中のある部分は、「それだけでは物足りない、逃避するのではなく、抑圧しているものと向き合いたい、対決したい」と思っていたようなのだ。このように、私の姿勢が逃避から対決へと転じる瞬間に、罪悪感は産声を上げるようなのである。

そういった訳で、私がこの論考を書き上げるには幾多の罪悪感を乗り越える必要があった。

これを書くことは、「BLに興味を持たない人を放っておいて、BL愛好家同士秘密の花園に遊ぶ」ことではなく、「自由に性愛を楽しむためにBLという手段を必要とする現実の女性が生きている社会」について考えたり、「私の生き方(あるいは現実の社会)がどのように変わればそのような手段がなくとももっと自由に性愛を楽しめるようになるのか」を問うことだった。

話を戻す。私はBLの素晴らしさについて、多くの友人達と意見を交換したが、そこには当初、様々なコミュニケーションのギャップがあった。

例えば、実際に性行為をするような間柄であっても、セックスに関して自分の感じていることを言葉にして伝えるには越えなければならない壁があった。そして友人達の多くもまた、セックスができる関係と、セックスについて話せる関係はまた別という考えを持っていた。さらに、性的な関係にない男性と性的なことについて意見交換することには、当然ながら壁があった。また、性被害のサバイバーである友人は−−−−当人が十分回復して健康になっているにも関わらず−−−−被害を受けていない人と性に関する話題をもつことに日頃から困難を感じていることが分かった。なぜなら、被害を受けていない女性は、被害をカミング・アウトされると、どう接していいかわからないということが、往々にしてあるからである。また、女性同士で性的な事柄を話題にする上で、BLを好きな人と、そうでない人の間にもやはり壁があった。BL愛好家の女性で、そうでない女性に対してBLの魅力をうまく伝えられた経験のある人は−−−−私を含め−−−−ほとんどいなかった。私に協力してくれた人たちの中で、ヘテロセクシャル(異性愛)の男性のBLに対する態度にはグラデーションがあり、BLを楽しむことができる人もいれば、それは無理だが私とBLについて話すことを楽しめる人など、様々な人がいた。

彼らとの対話の中で、繰り返し発せられた問いがあった。

「なぜBLなのか?」

−−−−時に冷たく、そして時に温かく−−−−その問いは発せられたが、要は「なぜ男同士でなければならないのか?」ということであった。

自分にとって感覚的に自明であることを、人に説明するのが、こんなにも難しいと感じたのは初めてかも知れない。

しかし私は確信していた。

たとえ言葉で説明できなくとも、すべての答えは既に私の中にあると−−−−。

私は自分がBLを嗜好(しこう)する無意識的な意味や動機を、そしてBL文化とメイン・ストリーム文化との位置関係を、自分自身の体験を通して「可視化」したいという野望を抱いた。

本書全体が、その試みの結果である。

エッセイの前半部分で私は、自分のBL趣味と関連していそうな個人的体験を挙げた。この体験をどのようにして選び出したのかについては後述する。

エッセイの後半部分では、私がBL作品で味わった感動の性質を、現実世界における女性のありようと結びつけて解釈することを試みた。

ぼんやりと潜在意識で感じていたことを明確な言葉として切り取る作業の過程で、まるで、新しい眼鏡をかけて世界を見るかのように、自分の過去や現実の社会がこれまでと全く違って見え始めるという現象に私は驚かされた

私は何か思いつくか、少し書き進めるごとに、友人達と内容をシェアし、ディスカッションを重ねた。

私たちはその都度少しずつ、お互いの間にあるコミュニケーションの溝を越えていった。

ある人は、私が「置き場のなかった感情の置き場をつくろうとしている」と言い、別の人は、私が「多くの女性の悩みを代弁している」、「言いたいことを言ってくれてスッキリした」と言ってくれた。

またある人は、この件について私と話をするのが、まるでレズビアンになったみたい、と言って笑い、別の人は、このエッセイを通じて、私の繊細さや知性や暴力性に触れるのが、まるで私とセックスしているみたいだ、と言った。

またある人は、「抑圧する側は、抑圧されてる人の気持ちがわからないから、絶対に書くべきだ」と言ってくれた。

ある人は、私の体験と性被害者の体験との関連性についてヒントを与えてくれた。

私と性被害のサバイバーの友人は、多分以前から直感的には知っていた、お互いの経験の違いを超えた共通性を確かめ合った。

ある人は、「これまで自分のSM性癖を後ろめたく感じてきたけど、市民権を得たようで嬉しい」と言ってくれた。

またある人は、このエッセイをきっかけとして、自分自身が性的な興奮とともに感じている様々な情緒について気づくことができたと言った。

女性のうち約2名は、中高生の頃、NHKのテレビシリーズ『アニメ三銃士』の二次創作同人誌(男になりすました女性であるところのアラミスと男性キャラクターとの性愛の物語)に熱狂した経験があった。また、私を含めた2名は、『天(そら)は赤い河のほとり』という、内面も外見も少年に似た少女が活躍する少女漫画のファンであった。こういった趣味は、BLに比べるとややメイン・ストリームに近く、BLの文化はメイン・ストリームからより偏奇していると私は考えた。そのうちの一人は、私が何か仮説を出すたびに「男同士である必然性が、きっともっとあるはず」と言い、何度も私に質問を投げかけ、さらに先へ進むよう私を励ましてくれた。私と彼女との微妙な違いが、私の軋みがちな思考力に油を注し、それまで気づきもしなかった点を気づかせてくれた。

私自身の変化としては、当初は自分の中のマゾヒスティックな面に市民権を与えるだけで四苦八苦していたのだが、「君臨せよ!(以下省略)」の項目を書き終わる頃には、自分の中のサディスティックな面についても平常心で受け入れることができるようになっていた。以前はSの面を人に指摘されると、まるで「切り裂きジャック」と言われたかのような極端な反応を示していたのだが−−−−。

私たちはこういったコミュニケーションを心から楽しんだ。

これは多分、私が「父なるもの」への罪悪感−−−−先ほどの罪悪感に名前を付けるとしたらそうなるのではないかと思うのだが−−−−をいくらか越えることができたからこそ、フィクションの中だけでなく、またBL愛好家同士の間だけでもなく、現実の中でお互いの違いを超えて築くことのできた関係性なのだと思っている。

本書はこうして生まれた。

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