思春期の君へ、あの頃の私へ

若い頃はどうしてあんなに性に関する話をすることのハードルが高かったのだろう?

この年になってみると、それについて話したところで失うものなんか何もないように思えるのに。

まず子供の頃はそれについて話す言葉を持たなかった。

さらに、それに対する大人の反応はどこかぎこちなく、急に腹が痛くなったか大事な用事を思い出したか、訃報に接した人のように不自然で、大の大人をそんな風にうろたえさせるということはどこか恐ろしく、こちらまで居心地悪くなるのだった。

それでも子供の特権でわざとどぎついことを言ってみたりするのだったが、自分が物を知らないということを見透かされてるようで恥ずかしくなった。

思春期になると、しばらくの間は同年代で性に関する話題に花を咲かせたものだが、そのうちに−−−−今になってみるとバカバカしいほどちっぽけなプライドのために−−−−経験がないということが急に恥ずかしくなり、話をする機会もめっきり減ってしまったのだった。

藤本由香里が「女性は視覚では欲情しない」というような文章を若い頃読んだばっかりに、自分は男ではないのか、と真剣に悩んだという経験を書いていた(『快楽電流〜女の、欲望の、かたち〜』より)。私も随分この手の「女性は〜しない」というような言説に右往左往させられて悩んだ覚えがある。

なぜだか知らないが性に関する体験は、自分と一般とを引き比べて「自分はどこかおかしいのではないか?」と人を悩ませるケースが多いような気がする。−−−−特に若い時分には。

こういうこと一つとっても、もう少しオープンに性について話題にできたり、性に関する個々人の多様性を自然に認め合うような文化・風土があれば、それほど悩まなくて済むようなことばかりではないだろうか?

思春期の頃の私は、大人の女性たちが性についての一般的な知識などではなく、「私」を主語にして性に関する自分の生き方、自分独自の考え方などをオープンに語ってくれないことに対して、かなり不信感をもっていた。女性が性について話すことへの抑圧がある社会というのは、思春期の自分にとって全くフレンドリーではなかった。

さて、大人になった私はある日はたと気づいたのだ。自分が個人的に性やセックスについて困ることがなくなったからと言って、それについて押し黙っていたら、私の行動もまた、思春期の頃の自分が嫌っていた大人の女性たちと何ら変わりがないという事実に−−−−。

こんなことでは世代を重ねてもちっとも人類は進歩しない。100年後の少女は私と同じ問題で悩むのだろうか?もちろん現代にしたって昔に比べれば少しずつ状況は改善されているとは思うが。

そういうわけで、思春期の自分に恥じない生き方をしたいという、それ以上でもそれ以下でもないのですが、「私」を主語に性に関する発信をしていきたいのです。

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